世の中には「鳩の血」と呼ばれる宝玉がある。紅玉の中でも赤の深みや透明度がもっとも優れた、ごく一握りの希少な存在。
紅玉は炎に焼かれるとその赤味を増すというが、そんな紛い物の色ではなく、万人の目を惹きつける究極の紅色。
青玉を好むこの国では、あまり見られない石だが、それでもサイアンが今まで見てきた紅玉の中でも一等美しい色をしていた。
一等美しい、瞳の色。
けぶる睫毛に縁取られ、瞬目のたびに見え隠れする。
食い入るようにサイアンはその美しい瞳を見つめていた。

「あ、あの……」
やがて戸惑いがちにかけられた小さな声は、一体どれほどの時間が経過してからのことだろう。
「わっ!」
我に返ったサイアンは、間近にうら若き乙女のかんばせがあることに驚いて、抱き留めていた手を解いた。淡い緑のレースがひらりと舞い、姫君は再び床に倒れ伏した。
「も、申し訳ありません!」
男として不覚にも女性を放り投げてしまったことに真っ青になったサイアンは、慌てて姫君を抱き起こさんが為ににじり寄ったのだが、白いかいなが伸びてきてサイアンの行く手を阻んだ。
「ご心配には及びません」
透き通るような声は、一筋の糸が張り詰めるかのごとく、凛と響いてサイアンの耳朶を打った。白い腕が下ろされて、ようやく姫君の全貌が明らかに。
白く小さなかんばせは瑞々しくきめ細やかで、丸みを帯びた輪郭が十代の少女の溌剌とした健康を物語る。小ぶりの鼻と、色味の良い厚めの唇が整って並んでいる。
真っ赤だと勘違いした髪はよく見ると赤茶色で、床の照明によって鮮血の赤だと錯覚したようだ。緩く波打つ控えめな赤毛は艶やかに光り赤い花に飾られて、いくつかの束になって床を這っていた。
そして照明にも影響されない紅玉の瞳。深く燃え盛る炎のような色ではあるが、瞳の奥に湛えられた強い光はそのまま意志の強さに相当するのだろう。
理知的な雰囲気をまといつつも、どこか柔らかくたおやかな空気が漂う姫君に、サイアンは再び言葉を忘れて見入ってしまった。

「あの……?」
再びかけられた声は遠慮がちで、サイアンは我に返ると自分の間抜けた行動に羞恥心から頬を染めて俯いた。
「いえ、あの、かっぷく……た、倒れていると思ったんです。床にうずくまっていらっしゃったから。けれど勘違いで良かった」
先ほど一瞬だけ見た姫君の姿が脳裏に鮮明に焼きついている。もう一度見たいとは思うのだがなぜだか顔を上げようとすると、自分の意識とは別に体が拒否を示すのだ。顔に熱が集中してきっと真っ赤であろう自分の顔面を、目の前の姫君に見られては恥ずかしいのだということは分かっていたが、どういう感情から来るものかは知らなかった。
「ご婦人に、失礼をいたしました」
「いえ、こちらの方こそ。紛らわしい真似をしていたようで、申し訳ありません」
固い口調と衣擦れの音とともに姫君が立ち上がったのが視界の端に写った。早々に立ち去ってしまうのかと焦って、サイアンは姫君の白く細い手首を取った。
心の準備もしないままに姫君の白い面を目の当たりにして、心拍数が妙に早まるのを自覚したサイアンは、次いで姫君の手首に伸びた自分の不躾な手を発見した。
「あ……」
見知らぬ不審な男にいきなり手を掴まれて緊張しているのだろうか、不快な表情こそないが、姫君はサイアンの手と顔を交互に見比べ、しきりに瞬きを繰り返していた。
けれどこの手を放してしまえば、彼女は瞬く間にいなくなってしまいそうで不安なのだ。
掴んだ腕の感触や目で見た色彩だけを、この邂逅が現実であることの証にするにはあまりにも夢心地すぎる。
「あの」
紅潮した顔は、この明るい室内では到底かくせるはずもなく、けれど先ほど自分が赤い顔を目の前の彼女に見られたくはないと考えていたことすら忘れてしまうほど、今のサイアンは緊張していた。
掴んだ腕を振り解かれない。その事実だけがサイアンの原動力だった。
サイアンはゆっくりと立ち上がり、姫君の前に立った。
先ほどまで見上げていたからか、彼女は意外に小柄で、立ち上がったサイアンの肩にも届かぬ背の高さであった。もっとも、サイアンと肩を並べられる女性など今まで会ったこともないのだが。
「もしよろしければ」
言葉が上手く出てこない。まるで心臓が別の生き物のようだ。どうしてこんなに拳を握り締めて、彼女に触れる手は震えているのだろう。
「もう少しお話しませんか?」
普段のように微笑を浮かべて、「サイアン王子」らしく言えただろうか?
実際は今にも泣き出しそうな、とっても情けない顔だったのだが、感情が昂った彼には知るすべはない。

姫君はサイアンを食い入るように見つめた。大きな赤い瞳で見つめられ、サイアンは恥ずかしくて隠れてしまいたかったのだが、彼女に興味を向けられている喜びが勝って、忠犬のように待っていた。
姫君はサイアンの観察が終わると視線を室内に移し、床をしばらく正視したあと再びサイアンに視線を戻した。
そして口の端に微笑を浮かべ、手首を掴んだサイアンの手にもう片方の手をそっと置いた。
「もう少しだけなら、喜んで」
この言葉にサイアンは感極まって、彼女を抱き締めたい衝動に駆られたのだが、そこはさすがに理性が押し留めた。
「ありがとう」
きっと最高の笑顔で受け答えているはずだが、そのすぐあとから言葉が続かない。妙な沈黙が二人の間に降りて、サイアンは自分の手の平にじっとりと汗が滲んでいくのを自覚した。
幸なことに姫君は、もうしばしの間サイアンとの語らいを受け入れてくれたが、話題が思い浮かばないことにサイアンは再び青くなった。
普段なら他国の使者の関心を知己に富んだ話術で集めるのに、焦れば焦るほど知己どころか普通の話もままならない。背中を嫌な汗が伝うのを止められない。さっきとは別の感覚で心臓がうるさく鳴っている。
しかしサイアンがまごまごとしているのを余所に、姫君はしばしの逡巡の後おもむろに口を開いた。まるでサイアンの様子など意にも介さぬかのごとく。
「この建物はどうして光っているのでしょう?」
「え?」
サイアンの傍を離れしゃがみ込むと、地面の透明ガラスに埋め込まれた青色の発光体をガラス越しになぞった。
「アズーリは豊かな国です。凡人の私には分からない技術の粋を集めて作り上げられた不思議な道具が界隈に見受けられます。表の通りを照らしている照明も、人の手など使わずに火が灯るでしょう?」
不意に顔を上げた彼女と目が合って、サイアンはときめいた。同時に彼女は国外の人間なのだと思った。彼女の言葉に一抹の嫉妬とアズーリの富に付随する技術への興味と羨望が窺えたので、もすかすると産業スパイかもしれないという疑惑すら抱いてしまった。
世の中にはアズーリよりも便利で豊かな国はそうそうないのが現状であり、アズーリの産業技術を自国に持ち帰ろうとする愛国心豊かな人間は大勢いるのだ。大半は学府に籍を置き、数年かけてその知識や技術を身につけ帰っていくのだが、中にはアズーリの富に嫉妬するあまり研究途中の技術や道具を不当に盗んでいく輩が存在する。
目の前の少女がそのような人間であるなど到底見えなかったが、見るからに高貴な姫君が科学技術や機械工学などに興味があるなんておよそ世間一般の貴婦人にはありえない。どのような事情があるのかはサイアンにも分からないが、産業スパイにしろただの興味にしろ、現在研究中の眼下の発光体については詳しくは教えてあげられないのだ。
「これは石と液体が化学反応を起こして発光しているんですよ」
先ほどのように手放しで姫君に見とれることは出来なくなってしまったが、サイアンは普通の貴婦人が気まぐれに抱く興味であれば充分に満たされるであろう答えを返した。少し冷静になれたことで、普段どおりの微笑を湛え、姫君を観察した。

彼女はサイアンの答えに目を丸くして、床とサイアンを交互に見た。そして勢いよく立ち上がるとサイアン目掛けて詰め寄り、やや興奮した面持ちでサイアンのシャツを掴んだ。
「石とは?ただの石ではないでしょう?液体は?酸性?アルカリ性?どのような分量で反応が起こるのですか?化学式は?アズーリでは一般的な照明なのですか?いいえ、違う。こんなもの見たことがない。なぜあなたはこれのことを知っているのですか?アズーリの人間は皆これくらいの知識があるのでしょうか?」
間近に美しい女性の顔を近づけられて普通の状況ならば赤くも青くもなりようものだが、あいにく姫君の勢いがあまりにも激しかったためにサイアンは呆気にとられて後退った。
「見たところ親指大の石が入っていますが、これ一つでどれくらいの熱量を何時間保っていられるのでしょう。輝度や照度の調節はどのように?色味の自由は利かないのですか?」
「いや、私は研究者ではないのでそこまでは……」
サイアンがたじろいで言い淀むと、興奮して言い募っていた姫君の双眸がハッと見開かれ、全ての行動が停止した。
我に返ったようだ。
「し……失礼しました。殿方を質問攻めにするなど呆れておしまいでしょうね」
ほのかに頬を染めて彼女は手を放し俯いた。羞恥に染まる顔も見たい気もするが、紳士の道にもとる行いである。
彼女はまことアズーリの技術に興味があるようだ。それもスパイなどという悪行めいたものではなく、ただ純粋に。
彼女がアズーリの未公開の情報をくすねに来た他国の間者であるならば、自分が相応の知識を持っていることを決して表に出さないはずだ。ましてや並外れた興味を抱く様を見せ付けるなど、あり得ない。
「ふふふ」
サイアンは可笑しくて声を出した。笑われて目の前の彼女が更に俯く。貴婦人の失態を笑うなど、失礼だとは分かっている。
だけれどなんだか可笑しくて。
普通の女性が興味を持ちそうもない理工学の話に目を輝かせる彼女も、こんな純粋な瞳で見つめてくる彼女を産業スパイだなんて勘繰った自分にも、ただ可笑しくて。
「私は専門家ではありませんが、この石は今現在とある国からの要請で研究中の鉱石なのです。今は青白く発色していますが、もとは何の変哲もない茶色い石ですよ。液体に鉱石の成分が融解する時に熱量が発生します。親指大の小石でおよそ一晩光り続けます。輝度は鉱石の純度にもよりますが、色味や調節方法はまだ研究段階です。それと、鉱石の成分および液体の成分は非公開ですのでお尋ねになられても言えませんよ」
サイアンが一気にまくし立てる説明を、姫君は呆気にとられながらも驚くべき順応性で聞き入っていた。何か質問したげに口を開閉していたが、サイアンの最後の忠告を聞くと萎んでしまった。正に聞きたかったことを先に拒否してしまったようだ。
それならばと再び顔を上げた彼女には、最初に見た時のようにやはりサイアンの胸をときめかせる何かがある。
「どこの国で採れる鉱石ですか?研究要請を依頼した国と同じなのですか?」
「それも秘密です」
無邪気すぎる質問は国交にまつわるデリケートな話にも触れてくる。本当にただの興味だけなのかと勘繰りたくもなるが、魅力的な彼女の美しい表情を直視できなくて、情けなくもサイアンは視線を逸らした。彼女の大きな紅玉の瞳に見つめられるのは光栄なことだが、同時にむずがゆく恥ずかしい。人の注目を浴びるのは生まれた時から慣れた事だったが、彼女が相手では普段の調子が崩れてしまうようだ。
「そうですか……」
知的好奇心を望むままに満たすことの出来なかった彼女は、残念そうに肩を落とし首をうな垂れた。萎んだ様子にいたたまれなくなって思わず口を滑らしそうになるが、そこは言ってはならない重要機密。ぐっと息を飲み込んで、唇を引き結んだ。
これでもさっき漏らした鉱石の話は、アズーリの専門研究員とわずかな貴族しか知らないことなのだ。それを、ただ美しい姫君の興味を引きたいが為に喋ってしまったのは、いささか軽率であったかもしれない。
しかしもう話してしまったことを今更なかったことにはできようもなく、目の前の知性あふれる姫君が何がしかの理由でその記憶から忘れ去らない限り、サイアンの軽はずみな行為は抹消されないのである。もっとも、彼女がその情報を用いて悪事を働かねば、事は露見しないで済むのだろう。
心の中でそっと、この姫君と姫君をとりまく環境がアズーリとサイアンに悪意を為さないことを祈るばかりである。
「随分と理工学に造詣が深いようですが、興味がおありですか?」
数刻前の話題の貧困さが嘘のように今は落ち着いている。胸の高鳴りや落ち着きのなさはようやく下火になり、表情を取り繕えるくらいには自分の感情をコントロールできるようになった。今度はサイアンが彼女に問う番だ。
姫君はよもや自分に興味を向けられるとは思っていなかったのか、サイアンの質問に思いがけない様子で目を見開いて瞬きを繰り返した。そして逡巡を表すように視線を巡らせ、躊躇いながらも口を開いた。
「専攻は経済学を希望しているのですが、その、捨てたはずの故郷を豊かには出来まいかと、この国の利便を司る機器に興味を抱いてしまうようなのです」
郷愁を抱いているのか視線を伏せて、彼女は自らのことを初めて口にした。
目の前の少女は十七、八の年頃に見えるが、それではそんな若い身空で故郷を捨てたというのだろうか。彼女の口から語られた少ない言葉の中で、サイアンはいくつもの推測を重ねた。
故郷は貧困に喘ぎ、困窮の極みに達した彼女は家族を置いて故国を出奔したのだろう。少女の旅は生半可な易しさではないはずだ。アズーリに辿り着くまでに幾たびの困難に遭ったことだろう。
新天地であるこの国で希望を抱いて学府に通っているのか、自ら捨てたはずの故郷を今でも想い考えて、故郷を豊かにしたいとアズーリの技術の粋に興味を示すのだろう。
あくまでもサイアンの憶測に過ぎないが、自分の妄想にサイアンはいたく感激し目尻に涙を滲ませた。
抱き締めて今までの苦労を労ってあげたいのは山々だが、そんなこと彼女は望んでいないだろう。だからせめて、親愛を示すように両肩を叩いてうんうんと頷いた。
「よく苦労に耐えたね、えらい」
うんうんと一人頷くサイアンに、少女は要領を得ずに首をかしげる。けれどどこか面白げにサイアンを見つめて不意に笑った。
「おかしな方」
初めて見せた姫君の笑顔は、サイアンの全機能を停止させるに充分な威力を発揮した。ついで、炎の中に身を投げたかのように全身が熱くなって、心臓が破れそうに暴れだした。
不意打ちに見せられた笑顔は姫君の顔を更に美しく、しかし年齢相応のあどけない様に魅せられた。

もう、疑いようはない。
この胸の高鳴りを、何と形容するのか。
今まで感じたことのない気持ちを抱く理由。

体が勝手に動くのは、それが自分の本能だからだ。
手が勝手に彼女の腕を掴んで引き寄せるのも、自分が望んだことだから。
両腕で彼女の柔らかい体を抱き締めるのも、自分で起こした行動だから。

「嫌っ!!」

拒絶に胸を押し返され、脱兎のごとく走り去られても、それは自分の招いた結果。
自らの行いを悔やんでも、時は遡らないし姫君は帰ってこない。今しがたこの腕に抱いた感触を思い出そうと、手の平に力を込めた。けれど一握の砂のように指の間からさらさらとこぼれていく。傷ついた自分の心が、まるで夢であったのだと自らを言い聞かせるように。
しかし素直に夢に出来るほど、この感情の昂りは大人しやかではない。
彼女が走り去った後を迷いながらも辿っていくと、東屋の出入口から延びる階段に、赤い花が一輪落ちていた。
花びらが幾重にも重なった豪奢な姿は、飾っていた髪の持ち主に相応しかった。
サイアンは花を拾い上げ、辺りを見回した。もう彼女の姿は夜闇にまぎれ、行方もつかめない。
もう一度、赤い花に視線を戻した。
あの人の髪に咲いて揺れていたこの花が、唯一の証。彼女との出会いとこの感情の証。
美しい紅玉の瞳と鮮やかな赤毛の持ち主を思い浮かべ、サイアンは花に口付けを落とした。

まるで花の持ち主に贈るように、そっとやさしく触れた。




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