サイアンは息を殺して上階の様子を窺っていた。
激しい物音と、女の甲高い叫び声。それを静止する大臣たちの狼狽の声。また違う大臣はサイアンを探して走り回っているようで、しきりに「殿下、殿下、サイアン殿下!」と叫んでいた。
ここで見つかればどんな目に逢うか分からない。サイアンはバルコニーの柱の隅に縮こまって、空腹に暴れまわる獅子の檻を想像した。さしずめ上階の状態はそんなところだろう。
「うわああああ!!姫!」
「お止めください!!」
ひときわ切迫した声が聞こえたと思えば、サイアンの頭上で窓ガラスの割れる音と同時に、窓を突き破って庭先に自由落下する椅子が見えた。
窓枠をも潰して落ちていった客間用の高価な椅子は、サイアンの目の前を通り過ぎてしばらくの後、悲惨な音を立てて着地した模様。あの音では傷どころか、もう人が座ることも出来まい。
一緒に落下してきた窓枠の残骸と鋭利に尖ったガラスの破片は、サイアンの一メートル先に、これまた背筋の凍るような音を響かせてバルコニーの石床で粉々に砕けた。
幸い割られたガラス片は、バルコニーの隅に居たサイアンには降ってこなかったが、それでも一歩間違えば死んでいたであろう恐怖にサイアンは生きた心地がしなかった。
一瞬心臓が止まったが、活動を再開するとその動きは異常なほどに活発で、サイアンは軽い貧血を起こして動けないでいた。
「びっくりした……」
びっくりする程度では済まされない衝撃だったのだが、サイアンには適当な言葉がそれ以上浮かばなかった。柱にもたれて心拍が元に戻るまで大人しくしていると、上階はいまだ激しい死闘が繰り広げられているようだが、そんな喧騒は耳に入らなくなった。耳を打つのは自分の鼓動だけ。

サイアンは上階で聞いた女の名前を思い出した。
「スカーレット殿下」と、扉を隔ててくぐもった大臣の声が女をそう呼んでいた。サイアンは以前聞いたかもしれない曖昧な記憶からその名前を掘り起こす。
「マゼンタの……」
言いかけて口を噤んだ。上階を見ると、しんと静まり返っている。あの騒動は一旦収束したようだが、サイアンが見つからなければ事態は本当に終わりとはならないだろう。
大臣たちは血眼になってサイアンを探しているはずだ。そして見つけた暁には、上階の騒動を起こした女へと差し出されるのだろう。
もう放たれたかもしれない追っ手を恐れ、サイアンは音を立てずに立ち上がった。こんな所でうかうかしていられない、大臣たちの目の届かぬ所へ身を隠さねば。
サイアンはバルコニーの手すりに手を掛けると、文官然とした容貌に似合わぬ身軽さで地上へと降り立った。


アズーリの富の象徴とも言われる美しい王宮の、美しい庭園のあちらこちらに視線をさまよわせながら、サイアンは煉瓦の道を忍び歩いた。一見すると、物珍しげに庭園を散策する異邦人のようだったが、張り詰めた空気をまとい警戒した面持ちは何かに追われる逃亡者である。
美しいと評判のあるアズーリの庭園だけに、舞踏会の開かれている今夜はいつも以上に闊歩する人影の多いこと。サイアンは軽く舌打ちをしながら庭園を横切るべく足を速めた。
ある時は愛を囁き交わす男女の傍を通り、ある時は手に手を取り茂みに消えていこうとする恋人たちを視界の端に捉え、ある時は情事の声が聞こえそうで慌てて走り抜けた。
いくら舞踏会が出会いのチャンスだからといって、このアズーリの庭園が美しく恋人たちの甘い雰囲気を盛り上げるからといって、まだ陽も暮れてはいないのに皆お盛んすぎるだろう!サイアンは頬を赤らめながら庭園の端にたどり着いた。
常緑の生垣で区切られた庭園の最果て。ほぼ全力疾走で抜けてきて、上がった息を整えるようにサイアンは一つ深呼吸をした。そして辺りを窺いながら生垣の株を数え始めておもむろに屈みこむ。そこには定番の抜け穴があった。生垣の株が偏って生えているために枝葉の部分からでは分からない隙間が根元に空いているのだ。
サイアンはそこへ躊躇いもなく這いつくばって穴を抜けていった。
庭園の外は生垣に遮られ、舞踏会の喧騒も煌びやかな灯りも遥か遠くだった。庭園よりかは衛兵の少なくなった煉瓦の道を突き進み、サイアンは服の汚れを叩きながら、薄暗くなりかけた空に長く黒い影を浮き立たせている鐘楼を見上げた。
あの下にある大聖堂に隣接する書庫はサイアンの憩いの場だった。王立図書館や王宮の書庫とはその蔵書の数など比べ物にならないが、ひっそりと静かで人の少ないところが好ましかった。司書を務める年老いた僧侶は人がよく、しかも書物の知識においては王立図書館司書長にも引けを取らぬのだ。サイアンは知識深い老司書と語らうのが割りと好きだった。あの司書なら事情を話せばサイアンを匿ってくれるだろう。
善は急げとサイアンは鐘楼目指して走った。
途中、野外照明のランプが一斉に付き始めて、サイアンは今が午後六時であることを知る。薄ぼんやりと暗がり始めていた道が、さっと明るくなり視界が開けた。
辺りを透見できるようになったのは良いが、相手からもサイアンを見つけやすいということで、それならばとサイアンは今まで走っていた煉瓦の道を逸れ、野外灯の射さない芝生を踏んだ。甲斐あってか幾度の衛兵と遭遇したが、暗がりに身を潜めるサイアンの姿は煉瓦の上を歩く彼らの目には留まらなかった。これはこれで王宮内の警備体制に問題があるのだが、今はサイアンに都合が良いので衛兵長へ口出すのはもうしばらく後にしようと思った。

一向に近づかない鐘楼を見上げ、サイアンは額に滲んだ汗を拭った。暗闇に紛れ、人目を気にして大聖堂まで向かうのが、これほど面倒だとは思わなかった。今回は特に追っ手に見つかれば彼の人生が終わるという恐怖が付随しているために、少しの物音にも必要以上に警戒して、すっかり神経が磨耗している。
サイアンは走るのをやめ、野外灯の支柱に手をついて深く息を吐き出した。
もう少し歩いた先には青い東屋がある。王宮のいくつもある小庭園の一角に、実験的に作られたその東屋は、夜になると幻想的な青白い光を放つ。外から見ると暗闇に浮かぶ白亜の鳥かごのようで、そして中に入れば昼かと錯覚するほどの明るさがある。
人目につきやすい場所であるがゆえに、避けて通るべきだったが、サイアンはその光景を見たいと思って進路を変更した。幸いにも衛兵は一人として行き交わず、難なく目的の東屋に到着した。

夜空と樹木の境目も分からぬ宵の中、まるで巨大なカンテラのようにその建物は闇に浮かんでいた。野外灯の恩恵を受けず、己の放つ光で輪郭を明瞭にしている。
雪花石膏に美しく掘り込まれた彫刻の壁が、東屋の内から滲む光で青白い文様を描き輝いて見える。
いつ見ても美しい色合いで、まさかあの色の素が赤土に埋もれたみすぼらしい鉱石とは思えない。サイアンは東屋を建てる前に学府の研究施設から見せてもらった石を脳裏に映した。
感慨深く眺めていたら、東屋の中の灯りが揺らめき、サイアンは眉間に皺を寄せて刮目した。
装飾に施された穴や、窓と呼ぶべき穴から漏れる光が、不規則にゆらゆらと揺れている。
断続的に何かが光を遮り、発光が揺らめいて見えるのだと気付いたサイアンは、東屋の中に誰かが居るのだと思った。
本来ならば踵を返して一目散に逃げねばならぬところであるが、なぜかサイアンの足は東屋に向かった。理由はサイアン自身も分からない。気付けば足が勝手に東屋へと続く階段を踏みしめていた。
東屋同様、踏み石の間に埋め込まれた発光体のおかげで足元は明るく、光の階段を軽く駆け上がり、サイアンは入り口から中の様子を覗き込んだ。


「!!」
サイアンは東屋の中の光景に息を呑んだ。
床にうずくまる女性が居たからだ。
前のめりに倒れ込んだような格好で、広がった赤い髪が滴る鮮血に錯覚を起こした。
さながら割腹自殺のようだったが、サイアンの血の気が引く前に鮮血だと思ったものが見間違いだと気付いた。けれど倒れていることに変わりはなく、サイアンは自分の立場も状況も一瞬で忘れて女性に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
肩を掴んで抱き起こした際、その体の軽さに貧血でも起こして倒れてたのかと考えた。
しかし緩く波を描く髪が翻り、紅玉の瞳を目にした途端、一切の思考は停止してしまった。




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