暗闇の中から目を覚ますと豪奢なシャンデリアが目に飛び込んできた。複雑な角度にカットされたクリスタルが照明の光を乱反射させて部屋の中を明るく見せる。
エオシンにはその光が眩しくて目を細めたのだが、脇から伸びて来た恐ろしい赤鬼の顔に絹を裂くような悲鳴を上げてしまった。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
「うるさくてよ」
鈍い音とともに額に落とされた容赦ない姉姫の鉄槌に、再び意識が遠のきそうになったが、手近にあった肘掛を掴んで襲い来るめまいをやり過ごした。次に気絶したら簀巻きにされて川へ放り込まれるかもしれない。
突然の驚愕に早鐘を打つ心臓が平常を取り戻すまでエオシンの焦点は合わないままだった。徐々に輪郭を取り戻す姉の姿がまるで死神のように見えた。
「ここは……」
エオシンは一人掛けのソファに身を沈めていた。意識を取り戻して身を起こし、傍らに佇む姉姫を見上げると、彼女は口元を扇で隠しながら握りこぶしを構えていた。中指半分突き出した握りこぶしを。
あれで殴られたのかと思うとエオシンは再び気が遠くなりそうだった。
オットマンから足を下ろすと淡い色のドレスの裾が、耳障りな衣擦れの音を立てて床に広がった。
「あれくらいで失神するなんて、お前も軟弱になったものね。昔はわき腹を三十分くすぐっても泣くくらいで失神まではしなかったのに」
そんなにわたくしが怖いのかしら、と半ば独白めいて姉が呟く。それにエオシンは首肯を示してしまいそうになったが、馬鹿正直に答えて今まで散々酷い目に逢ってきたことを思い出した。頷こうとしていた首を重力に逆らって引き戻すのは大変な労力が要ったが、幸いにして姉には気付かれずに済んだ。
どうやらエオシンは姉姫が怖いあまりに、これから先またしても姉姫と関わらなければならない未来を考えて卒倒してしまったようだ。
「お前が暢気に寝てる間に舞踏会の時間になってしまってよ」
別段慌てた様子もなく、姉姫は小さく溜息を漏らした。
エオシンが見上げた姉姫は、先ほどの深紅のドレスではなく、正統派清純系の白色をまとっていた。魔女の黒色だとか魔性の赤色だとかが良く似合い、本人も濃い色合いを好んで着ていただけに、全くイメージに沿わないデザインで思わず凝視してしまった。
姉姫はエオシンの視線に気付いて、いつもの背筋を凍らせる冷笑ではなく、花がほころぶような可憐な笑顔を見せた。そもそも姉姫の本性を抜きにすれば、上品で清楚な純白のドレスは彼女の美貌に良く映えている。知らぬ人が見れば、妹をいたぶるのが趣味な女だとは誰も思うまい。
もしや、これでアズーリの王太子とやらを蟻地獄に誘い込むつもりなのだろうか。エオシンは見たこともない王太子に憐憫を感じ、心の中で合掌した。
「わたくしはこれから国王陛下にご挨拶差し上げて、王太子殿下とご対面してくるわ。明日には婚約が発表されるかもね」
ほほほ、と高笑いしながら腹心の侍女を従えて姉姫は扉に向かう。
「お前はここでゆっくりお留守番でもしていなさいな」
一度振り返って姉姫は部屋を出て行った。室内には数える程度の侍女と女官がいるだけで、広い室内は閑散とした様子になってしまった。エオシンは溜息を吐いて再び椅子にもたれかかった。
姉に付き従うためにここへ来てドレスをまとっていると言うのに置いてけぼりを食らってしまった。別に舞踏会に出たいと言うわけではないのだが、いささか拍子抜けがした。結局の所姉はエオシンになにをさせたかったのだろうか。
物思いにふけりながら、行儀悪く足をぶらぶらさせるとその振動でぽろりと高いヒールのパンプスが脱げ落ちた。大理石の床で小さく音を鳴らせながら転がる華奢な靴を、エオシンが動くよりも早く傍に控えていた女官が拾い上げて手ずから履かせてくれた。そのことに酷く違和感を覚えたが、ほんの二年前までは床に落ちたものなど自ら拾い上げるなんてしたことがない生活が当たり前だった。人間、変われば変わるものだと思う。
靴を履いたエオシンは立ち上がって所在無さ気に室内を見回した。ドレスは着てはいるが、エオシンが倒れたのは髪を整える前だったので、尻まである赤茶けた波打つ髪はまとめられもせず背中を流れている。国を出るまで切ったことのなかった髪の毛は地につくほどだったのだが、明らかに良家の令嬢かと思わせる長い髪は邪魔になるから切ってしまったのだ。けれど短髪にするまでの勇気は持てず、自分で手入れのしやすい長さで切り揃えたのだが、二年の間にまた少し伸びたようだ。
「御髪を整えましょうか?」
女官がエオシンに鏡台の前を指し示した。わずかな逡巡の後、エオシンは首を横に振った。
「私は姉上を追いかけなければならないだろうか?」
一応、姉姫の介添えのような役割でここにきたのだが、主の姉が留守番だと言ったのだからここで大人しくしているべきなのだろう。エオシンは自分が何をしていれば良いのか分からずに、故郷から姉姫が連れてきた侍女に半ば懇願めいて訊ねた。
「エオシン様のなさりたいようになさればよろしいかと存じます。先ほどスカーレット殿下はエオシン様をゆっくり休ませて差し上げるよう仰せでございましたが」
よもやあの姉姫が自分を気遣うような言動を取るとは、明日は嵐が吹き荒れるか、とエオシンはいささかも信じられず侍女の顔を穴が開くほど凝視した。侍女はそんなエオシンの表情に笑いをこらえて唇を引き結び吐息を漏らした。
「スカーレット殿下もエオシン様にお会いにならぬ間に、お優しくおなりですよ」
侍女や女官も手を焼いていた、あの我儘陰険王女が?と、脳裏に故郷での姉姫の暴君ぶりが思い出された。猜疑は晴れないが、侍女の穏やかな表情を見ていると、人間変われば変わるものかとも思えてくる。


侍女と女官がしきりに鏡台へ連れて行こうとするので、エオシンも渋々連れて行かれた。ぼさぼさのままでは見っとも無いので、髪は丹念に梳りはしたが、舞踏会に出るために複雑に編んで結い上げることはしなかった。上部を簡素に編みこんで、マゼンタの赤い花を挿してもらった。
締め付けられる苦しさはあれども、華やかに着飾るのは女性として嫌いではない。
動くたびにひらひらと舞うドレスの裾が綺麗で、しきりにステップを踏んでいた。小さい頃に教え込まれた足の動きは、数年のブランクがあろうとも、難なく勝手に動き出すのだ。ひらひら翻る淡いレースを無邪気に眺めていたら、いつのまにか窓際に立っていた。
すぐに意識は窓の外へと流れて、今沈まんとする夕陽が王城の尖塔の陰に垣間見えた。
夜の帳を下ろした城の中庭では、各所に立てられた野外照明のランプに次々と灯が入れられていくのが見え、ほの明るい光に包まれていく様はまるで何か特別な催し物を見ている気分だった。
「この国は本当に豊かだな……」
瑠璃が嵌めこまれた窓から外を覗き見るエオシンは誰に言うともなく呟いた。
世界の知を集める青の国アズーリは、大国ではないが世界有数の豊かな国である。豊富な水と色彩豊かな季節は多くの賢人を生み出し、彼らが身を削って作り上げた技術は広く人々の利便を潤し、生活水準は向上の一途を辿っている。
今見たランプも、余所の国では人が手ずから長い柄のついた火種を掲げもって火屋(ほや)の中の芯に灯りを移して歩くのだ。しかしこの国ではそれらが全て自動で行われている。刻限になるとランプの中の芯が勝手に燃え出すのだ。しかも燃料も自動的にランプへ汲み上げられ、何もなければ半永久的に燃え続けるようになっている。そしてまた刻限になると自動的に灯は落とされる仕組みになっている。
アズーリにはこうした人の手を遣わない仕掛けがいくつも生活の中に見受けられる。それによって人々は生活の中で己の時間を持ち、更なる仕事や趣味に興じる。その日の暮らしだけで一日が終わってしまうマゼンタとは大違いだ。

エオシンは知的好奇心からあの庭園灯を間近で見てみようと思い、中庭へ通じる扉を開けた。
「そんなに遠くへは行かない、姉上がお戻りになる頃には帰ってくるから」
心配そうに後に続く侍女を、そのように説き伏せてエオシンは一人で中庭に降り立った。
夜空を突き刺すかのような、庭園灯を目指してエオシンは歩いた。高いヒールを上手く捌けないため走りたくても歩くことしかできない。時折足をもつれさせ、エオシンは庭園灯の下までたどり着いた。
けれど見上げた庭園灯は予想外に背が高く、煌々と灯る火屋はその後ろに浮かぶ月とそう変わらない大きさに見えた。
あの火屋の仕組みを解き明かそうかとも思ったのだが、火屋のぶら下がった支柱をよじ登らない限り中身も見ることはかなわない。よもやドレスで猿の真似事もできぬとエオシンは溜息を吐いて、意識を中庭に移した。
他にエオシンの興味を引くようなものはないかと。
ぐるり辺りを見回せば、視界の端に仄明るく浮かぶ東屋が見えた。誰か居るのだろうかと足を向けたのだが中の灯りが揺れることがないので、無人であろうと判断できる。案の定、入り口から中を覗き見たが人の気配はしない。
エオシンは周りを警戒しつつ、慎重に足を踏み入れた。円筒の東屋の中は卓もない、壁沿いに巡らされた腰掛があるのみで、仄明るく浮かび上がらせていた光源は淡い青の石を敷き詰めた床に埋め込まれていた。
エオシンはしゃがみ込み、等間隔に埋め込まれた灯りの仕掛けを探ろうと床に顔を近づけた。
「なに……これ?」
自分の見たものが信じられなくて、エオシンはうわ言のように呟いたが、遠くない所に人の気配を感じて咄嗟に身を固くした。
「大丈夫ですか!?」
気配を感じ取ったと同時に騒がしく駆け寄られ、思いもよらず抱き起こされもしてしまい、エオシンは驚きのあまり口も利けなかった。己の動悸が耳朶を打つのが聞こえる。
瞬いた目の前に飛び込んできたのは、濃紺の髪と快晴の空を思わせる青の瞳。
耳朶を打つ早鐘が、大きく轟くのを聞いた気がした。


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