エオシンはおよそ二年ぶりのドレスに身を包み、大層窮屈な思いをしていた。
ゆったりとした学府の制服に慣れてしまっていたエオシンには、体の曲線を美しく際立たせる為に締め付ける帯が苦しくて仕方がなかった。けれどそれが現在の流行であるのだから甘んじて受け入れなくてはなるまい。
人の影に隠れるようなもっと色味のくすんだ地味なドレスを想像していたエオシンは、一瞬眉をひそめたが、女官に身包み剥がされて着替えさせられたときは、叔父の趣味の良さに思わず感嘆の声を漏らした。叔父が用意したドレスはエオシンの望むようなものではなかったが、華美なものでもなく、むしろ彼女の年齢や容貌に良く似合っていた。淡い緑のドレスは、軽やかな布地がいくつものひだを作り、ふんわりと裾を広げていた。エオシンの年齢にもなれば、襟ぐりの大きく開いたドレスを着て、大人の女性を振舞う姫が大半だが、露出を控えレースをふんだんにあしらうことで清楚かつ可憐な印象を持たせた。
故郷にいるときはまだ子供だったエオシンも、二年の間に大人らしい体と顔つきになってしまい、久しぶりにドレスをまとった自分が全く別人のように見えてしまった。
感心して鏡を覗き込んでいると、鏡越しに後ろの扉が開いた。扉から入ってきたのは深紅のドレスを身にまとった、誰が見ても絶賛するほどの華やかな美女だった。色白で背が高く、スタイルの良い体つきと洗練された身のこなしに誰もが彼女に魅了されるに違いない。
美女は血に濡れたような赤い唇で弧を描き、振り返ったエオシンに笑いかけた。
「わたくしの可愛いエオシン、会いたかったわ」
ゆっくりと美女はエオシンに近づき、彼女の顔を包むように手を伸ばしてきた。
「叔父上を使って無理矢理つれてこさせたのは姉さんでしょうに」
伸ばされた手を払いのけてエオシンは眉間に皺を寄せた。エオシンの姉は払われた手を、別段気にする様子もなく、流れるように自分の腰に添えた。まるで始めからそこへ手をやろうとしていたかのように。
「エオシン、わたくしの可愛いエオシン。同じ母から生まれた、たった二人の姉妹であるのに、わたくしがお前を恋しがらないとでも思っているの?わたくしがお前をどれだけ可愛いか、お前はちっともわかっていない。お前がいない二年間は寂しくて死んでしまいそうだったわ」
うっすらと涙を浮かべる姉を、どこか冷めた目でエオシンは見遣る。むしろ死んでくれ。そう言ってやりたかったが、そんなことができようものならエオシンは祖国を離れることはしなかっただろう。
一見、妹想いの心優しく美しい姉だが、エオシンは心からこの姉を好きになったことはない。
エオシンが幼い頃、城の中庭で菓子をやろうと誘われてのこのこ寄って行ったら、池に突き落とされて危うく溺れ死ぬことがあった。
憂い顔で独りでいたので慰めようと花を摘んで会いに行けば、喜んでくれたと思ったのもつかの間、花瓶の中の水をぶっ掛けられ調度の甕の中に閉じ込められた事もある。
仕返ししようとして、ウシガエルを百匹姉の部屋に放ったら、その次の日の三食のメニューが全部カエルになっていた。しかもエオシンだけ。
その他に階段から突き落とされたり、五階の窓から紐一本でぶら下げられたり、猟犬をけしかけられたり、積雪の中を下着で放り出されたり、姉には人格を疑うような非道の数々を受けた。
しかも、それら全てにおいて姉は優しい笑みを浮かべたまま実行するのだ。
しかし、そうかと思えば何事もなく頭を撫でてくれたり、珍しい遠国の菓子をエオシンの為に取り寄せてくれたり、姉の行動は全く持って不可解である。
そんな性質の姉であるから、大きくなってからは自らは極力近づかないようにしていた。そして逃げるように、このアズーリの最高学府に死に物狂いで合格したのだ。エオシンがアズーリにいることはくれぐれも内密にしてくれと、両親にも兄弟にも言い含めていたと言うのに、どこから情報が漏れたのかとエオシンは歯噛みした。

「可愛いエオシン。ねえ、聞いてちょうだいな。お前、今の学校を出ても、マゼンタには戻ってこないつもりでしょう?」
姉姫はエオシンの左手を掬い上げると、甲を白魚の指先ですいと撫でた。エオシンは姉姫の言葉にぎくりと肩を震わせる。
エオシンはこの姉を避けるためにアズーリに来た。
姫と生まれたからには日がな一日ぼんやりしていても、いつの間にか他家に嫁がされているものである。しかしエオシンはもっと早く恐ろしい姉から離れたかった。貧困な知識を駆使して導き出した答えがアズーリの学府である。受験資格を得られるのは十二歳から三十歳。当時のエオシンはちょうど十二歳になったところだったが、無知ともいえる貧困な脳みそで、受験資格があろうとも入学資格は到底得られない有様だった。それから姉の虐待をかわしつつ、血反吐を吐きながら猛勉強をすること数年の後、アズーリへ入国するに至ったのだ。
もう婚姻を結んでもおかしくない年頃だが、やっと掴んだ自分の道をそう易々と他人に渡したくないのだ。己の手で切り開く未来を知ってしまったエオシンには、今更王女として生きようとは思わなかった。
幸いにもアズーリの学府を卒業してから先は、研究所や政府への勤務が約束されている。アズーリで地位を得るも、アズーリの最高学府の課程を履修した功績で祖国へ貢献するも各々の自由である。
「結構よ、戻ってこなくても。お前がずっとこの国にいるのなら、それ相応の地位を築きなさいとお父様から言伝よ。できれば王女としてどこかの国に嫁がせたかったみたいだけれど、王女は他にもたくさんいるものね」
まるで国家のひとつの駒のような扱いに、父王の顔を思い浮かべた。決して父親として子煩悩とは言えない男だが、王としての責任を誰よりも知っている人だった。そしてそれを知っているからこそ、父の言葉に悲しまない自分がいることをエオシンは感慨深く思った。
そしてエオシンを慰めるような姉姫の瞳の奥に、憐憫の色が揺らめくのを不審な思いで見上げた。
「だけどわたくしは、お前の傍にいたいわ。だって可愛いわたくしの妹ですもの。お前がいなくてはつまらないわ。だからね、わたくしお父様にご相談申し上げたのよ。そして運よく解決できたの」
絶えず微笑を湛える姉姫にしては満面の笑みで、エオシンは一瞬その表情にひるんだ。何か良からぬことを考えていることは頭が理解しなくても本能が感じ取ってくれる。
「わたくしアズーリの王太子殿下と結婚するわ」
弧を描く赤い唇が、この姉姫には良く似合う。深紅の波打つ豊かな髪も、血の色が似合う白い肌も、彼女の名前に相応しい。
「スカーレット姉さん……」
エオシンの呟きに、この先も一緒よと悪魔のごとき言葉が重なった。


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