アズーリの王都には広大な敷地を有する世界最大の学術機関がある。それがアズーリ王立総合研究所。
幾棟もの学舎が中庭や通路および塀によって区切られている。
世界最大と言われるくらいであるからして、受け入れる学生の数も並みではない。各国から志高く、アズーリの先端知識を学ぼうと、毎年何十万人もの受験者が集うのだが、受け入れられるのはその10パーセントにも満たない。
難関を勝ち抜いてきた彼らは、学府の生徒である証の濃灰色の制服を身にまとい、学び舎を闊歩する。
エオシンも皆と同じく濃灰の制服をひるがえし、次なる授業の教室へ足早に移動していた。
「エオシン、エオシン様」
ふいに声を掛けられて、エオシンは振り返った。ここで彼女を様付けで呼ぶものなどいない。
顔をしかめて相手を睨むと、四十を過ぎたくらいの中年男性は気まずそうに目を泳がせて頭を下げた。
「突然訪ねてきて何の用です。先に連絡くらい、くれても良いでしょうに」
エオシンは中庭に立っている時計を流し見て、もと来た道を戻り始めた。
「授業は休みます。来賓室が一つ向こうの校舎にありますから、そちらで話を伺いましょう」
中年男性の脇をすり抜けなが、エオシンは相手の返事も待たずに歩き出した。
「姉さんが?」
男の話を黙って聞いていたエオシンは、実姉の名前が出るとさも嫌そうに眉根を寄せた。
「エオシン様が国を出られて二年が経ちました。その間一度も帰ってこられず、姉姫様も大層お寂しい様子で、今回のアズーリ行きを好機にエオシン様とお会いになられたいそうでございます」
「それで来週から開かれる舞踏会で侍女の真似事をしろと?馬鹿馬鹿しい、もうすぐ大切な進級試験があるんです。姉さんの暇つぶしには付き合っていられません」
エオシンは眉間の皺をより一層深くすると、腕を組んでソファに深く身を沈めた。
「王女殿下」
困ったように言い募る男にエオシンは瞬時に手を挙げて制した。
「ここでそのように呼ぶのは止めて欲しいと言ってあったはずです。よもやお忘れではありませんね、叔父さん?」
エオシンの叔父は失言した口をとっさに手で塞いで、意気消沈した。
各国から受験者の絶えないアズーリの最高学府には、身分への優遇がない。全ては公正な判断の元、一定基準を満たす試験結果を得られれば入学できるのだ。言い換えれば、試験を通らなければどんな高貴な身の上であろうとも裏口入学もできない。
学び舎には老若男女、貧富の差なく、皆同じように学問を学んでいるのだ。
当然、己の地位をひけらかし下層民を蔑む生徒もいないわけではない。
けれど、学問を前に全ての人間が平等であると謳う最高学府では、己の身分を明かす言動をしてはならないという暗黙の了解がある。
エオシンは学府のポリシーに共感したというわけではないが、身分がばれて面倒ごとがおきるのは遠慮したい。今まで何の隔たりもなく付き合ってきた学友とぎくしゃくするのは嫌だった。
身分が公になりふんぞり返っていられるのは大したことのない中途半端な身分の者だけだ。
「ですが……ですが、エオシン様……」
震える声が聞こえてエオシンは意識を浮上させた。
目の前の叔父は俯いて肩を震わせている。
俯いた叔父の表情を読み取ろうとして、エオシンは自然と前に体を傾げた。
その瞬間
「お願いでございます!!姉姫様は貴方様を城にお連れしなければ、私を国に帰すと仰せなのです!!もう家には帰りたくありません!あんな恐ろしい妻の待つ家に帰るくらいなら、一生このアズーリでマゼンタ大使をしていた方が天国です!!」
エオシンと間を挟んでいたローテーブルに、わっと泣き伏して恐妻家の叔父は訴えた。
エオシンはぎょっとして後退り、みっともなく嗚咽にまみれる叔父をおろおろと見守っていた。
実の所を言うと、叔父の事情などエオシンには全く関係がない。エオシンの母であるマゼンタ王后の異母弟である叔父は、エオシンの後見としてアズーリに駐在大使の名目で赴任してきた。
後見とは言うが、一年をほぼ学舎と学生寮で過ごし、清貧に暮らすエオシンは、滅多に叔父に頼ることがない。だから叔父の頼みでも、聴く義理もないのだ。
しかし、四十も過ぎた中年が、妻が怖いと言って泣く姿はあまりにも憐れで見苦しかった。
そんな彼といくつかの血のつながりがあると思うとやるせない。
はあ。
溜息を吐き出して、我知らず深く刻んだ眉間のしわを人差し指でもみほぐした。
「仕方がありません…、これも人助けです。ただし、付き合えるのは舞踏会の三日間だけです。その前もその後も試験勉強がありますので姉さんには了承させてください。ドレスは叔父さんにお任せしますが、できるだけ目立たない、控えめなものをお願いします」
エオシンの言葉に叔父は見る見るうちに晴れやかな顔へと変貌し、今はもう踊りだしそうな勢いで首肯を繰り返している。
早速準備に取り掛かるという叔父の、その軽やかな足取りを忌々しく見つめながら、来週大病を患わないだろうかと、今まで風邪もひいたことのない己の体にエオシンは呪詛を吐いた。
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