今は亡き王国の


空の青。
雲の白。
赤、青、黄、緑、白、橙、桃、紫、黄緑、色とりどりの花。
金色の髪。
銀色の台座。
子供は色彩の渦に巻き込まれそうだった。
自分の背丈ほどもある草花の海を泳ぎ、泳ぎ、疲れてその手を休めた。
途端に溺れそうになる色の海。
もうだめだと感じたその時、腕を掴まれ台座に引き上げられた。

血のような赤い色の瞳が子供を凝視していた。
それは台座に立つ女だった。
波打つ金糸の髪は豊かに大地を覆っていた。
子供の母親よりもうんと若い年頃の女だったが、子供に大人の外見年齢など分からない。
女は何度か目を瞬かせると、面白いものでも見つけたように笑った。
「小さな人の子、迷ったの?」
女は美しく、それゆえ人ではないと、子供でも分かった。
けれど不思議と怖くはなかった。
女が子供の頭を撫でたからであろうか。

子供は父親に連れられてここへ来た。
正しくは「神殿」と呼ばれる建物にだ。
子供の父親はあまねく民の長を務めている。
よって長は民の暮らす世の吉凶を占ってもらうために、「神殿」に訪れていた。
長は子供に「神殿」とは「神」のおわす場所であると教えたが、子供には「神」のなんたるかがまだ理解できなかった。
子供が父に付き従うのに飽きるのも、そう時間の掛かることではない。
子供は特に好奇心が強かった。
知らない場所に連れてこられ、連日じっとはしていられなかった。

子供は小さな体ゆえに、大人には目の届かぬ道を見つけられる。
子供を捜す声を尻目に、網の目をくぐりぬけ、そうして子供は建物の奥へ奥へと進んだ。
わずかな壁の隙間をすり抜けて、辿り着いた場所は花園だった。
子供が知る限りの色が所狭しと花弁を競う、むせ返るほどの香りに包まれた、楽園とも言うべき花園だった。
子供はその中央に銀色の台座を見つけた。
その上に女が佇むのも見た。
金色の髪が花弁とともに揺れていた。
女は空を見上げて泣いていた。
涙は流さず、泣いていた。
子供はその瞬間に、花弁の海に飛び込んでいた。



女は子供の顔をまじまじと見つめ、そして屈託なく笑う。
「小さな人の子、あなたは美しいわ。」
女は子供が気に入ったようだった。
子供は生まれたときから、銀色の髪と空をはめ込んだような瞳を持つ、美しい容姿の子供だった。
女は子供を軽々抱き上げると、自らの膝に乗せ、台座に設えられた長椅子に座った。
子供の髪を梳き、滑らかな頬を撫でた。
子供は心地良く目を細め、気分を落ち着けた。
一陣の風が吹きぬける。
色とりどりの花弁は中空を舞い、虹色の嵐を起こした。
子供は硬く目を閉じたが、女が自分の体を飛ばされないように強く抱き締めるので、そっと女の顔を見上げた。
高い空を目掛けて舞い上がる花嵐の中、女はもっと高い空を見上げていた。
おのれの髪が千々に乱れても、女はずっと遠い空を見ていた。
子供が初めて女を見つけたときも、女は空を見つめていた。
空に何かが見えるのだろうか。
子供は空を見上げたが、とんびの一羽も飛んでいなかった。
大小の白く淡い雲が、悠然と揺蕩うだけだった。

「小さな人の子。」
女は空を見上げたまま言葉を紡いだ。
子供は女に目を戻した。
空を見上げて子供のことを忘れてしまったと思っていた。
風はやんでいた。
吹き上げられた花びらが、花園に戻ってきていた。
くるくるひらひら、くるくるひらひら。
色とりどりの花弁が、雨のように降ってきた。
千々に乱れた金の髪は、おとなしやかに女の背を流れていた。
女の肩にひと房だけ絡まった髪を、子供は夢を見るように手に取った。
黄金の糸のように光を放ち、きらめく女の髪は、艶やかで宝石のようだ。
「小さな人の子、親の元へお帰りなさい。」
見上げると、女は子供に目を落とし、おのれの髪を弄る小さな指先を愛しげに見つめていた。
「帰れるうちにお帰りなさい。」
女は子供の額に口付けた。
「早く帰らなければ、わたくしがあなたを食べてしまうよ。」
女は優しく微笑んだ。
子供を怖がらせる狂言であろうことは子供にも分かった。
子供は女のかんばせを、両の掌で包んだ。
「おまえは帰れないの?」
女は子供の言葉に赤い瞳を開いて驚いた。
すぐに目を伏せると見えない涙を流した。

子供は女の言うとおり、親元へ帰った。
子供の姿を見つけるなり、父親は子供を抱き締めた。
子供は父親に叱られたが、次の日も大人の目を盗んで女のもとへ行った。
やはり女は昨日と同じように、花の上に立つように、銀の台座に立っていた。
「また来たの。」
子供の姿を見つけて女は呟いた。
子供は女の立つ台座によじ登った。
立っていた女は体を屈め、両手を広げて子供を迎えた。
「いらっしゃい。」
子供はためらいもなく女の腕におさまった。
女も子供をためらいなく抱き上げて、膝に乗せた。
子供は女の金の髪を弄び、女は子供の銀の髪を梳いた。
女は台座から離れられないといい、子供は女の為に花を摘んだ。
女は子供に歌を聞かせ、いにしえの神々の話を聞かせた。
子供も自分のこと、両親のこと、兄弟姉妹のことを話した。
子供は采女が世話を焼くのを見真似て、女の髪を編んだ。
摘んだ花を髪に挿し、女を喜ばせた。
子供は毎日女のもとへ行った。
女は毎日来る子供を笑顔で迎えた。

「明日もまた来る。」
子供は分かれるときに必ずそう言って、女のもとを離れた。
女はいつも笑顔で見送っていた。
手を振る女をいくども振り返り、子供は父親のもとへ帰った。
帰ってきた子供に、父親は「神殿」から帰すと告げた。
子供だけ、家に帰すのだと言った。
連日どこかへ姿をくらます子供を、父親は家に帰すより他どうすることもできなくなった。
子供は泣いて謝ったが、父親は考えを覆そうとはしなかった。
次の日の朝早くに帰るのだと決められた。
せめて女に別れを告げたかったが、とうとう願いは叶わず、子供は帰路についた。
あの女は来ない子供をどう思うだろうか。
明日もまた来ると、言ったのに。
子供の脳裏に女の笑う顔が深く刻み込まれた。



子供が再び「神殿」に足を踏み入れたのは、六年たったのちだった。
子供は少年となり、父親の継嗣として民に認められていた。
ふたたび女のもとへ行き突然来なくなったことを詫びなければと、少年はあの日心に刻んだ。
「神殿」へ行く許しを得るために、少年は父親につき、よく学びよく働いた。
父親は少年に自分の名代として「神殿」へ遣わした。

少年は「神殿」で、長の継嗣として吉凶を占うところを見た。
占い師が何人も炎を囲んで祈っていた。
何かを焼いている炎だった。
掌と同じ大きさの、丸くて薄い石だった。
きらきらと松明の光を弾いて輝いていた。
見たこともない、珍しい石だった。
「神殿」の司は神の石だと言った。
この世に二つとない、神から賜った石だと。
炎に焼かれた石が熱によってひび割れるまで、卦は出ない。
占い師は卦が出るまで、昼夜を問わず祈り続けるのだ。

少年は近侍の隙をついて、最奥をめざした。
六年前より少年の体は大きくなってしまったので、同じ道は通れない。
少年は違う道を探しながら、奥へ奥へ進んだ。
同じ場所に、女がいるとは限らない。
けれど少年は探さぬわけにはいかなかった。
幼い心に刻んだ誓いを果たすために。
そして辿り着き、女に許しを請いたかった。

花園は、以前と少しも変わらず、そよそよと花弁を風に遊ばせ揺れていた。
中央に銀の台座と、その上に女が立っていた。
女は初めて見たときと同じように、空を見上げていた。
空を見上げて、恋しがるように、泣いていた。
目に見えない涙が女の頬を伝うようだった。
少年は台座を目指して花の中に飛び込んだ。
花は少年の腰ほどの丈で、もう花の海に溺れることもなくなっていた。
台座によじ登らずとも、ひと飛びで女の前に立つことが出来た。
「また来たの。」
六年前と同じ言葉で、女は少年を出迎えた。

女は以前と少しも変わらぬ姿をしていた。
幼い頃の記憶だけで憶測する女の年齢は、今の少年よりも少し年かさなだけだった。
目の前にいる女も、少年より少しだけ年かさだと見受けられた。
目の前の女は、記憶の女と寸分違わぬ笑顔を少年に向けていた。
まるで「明日もまた来る」と言った続きのように。
女にとっては少年が来ない間の時の流れなど、一晩を待つのと大差ないようだった。
女は笑って両手を広げた。
少年は心底安堵して、女の腕に包まれた。
「すまなかった。」
少年は吐き出すように呟いた。
女には聞こえていただろうが、何をとも、何がとも問わず、少年を抱く腕に少し力を強めただけだった。
女は腕の中の少年を膝に乗せようとしたが、少年は慌てて、さすがにそれはできぬと、顔を赤らめて辞退した。
その代わり女の手を取り、いつも座った長椅子へ並んで座った。

女は少年の記憶よりも美しかった。
印象の姿よりもなおたおやかで、華やかであった。
白くきめ細やかな肌を羅衣に包み、あらわになった曲線は肉感的で、少年は頬を染めた。
女は人ではないので、人が感じる羞恥と言うものを持ち合わせていない。
薄い衣の上からうかがい知れるおのれの艶容な肢体に、少年が目を逸らす理由も分からない。
少年が小さい頃と変わらず、銀色の髪を梳き、滑らかな頬を撫でた。
少年は居心地が悪そうに身じろぎして、俯いた。



少年は「神殿」に滞在できる間、できる限り毎日、女のもとへ通った。
子供の頃と同じように、女の髪を編み、花を摘んで挿してやった。
艶やかな金色の髪に指を通すたび、少年の中で幼い頃と違う感覚が目覚めた。
少年の手を流れる金色の髪に、女の目を盗んで、そっと口付けた。
ひどい罪悪感と満足感を得た。

「小さな人の子。」
女は少年を呼んだ。
少年は女の呼びかけに眉間を寄せた。
少年は女に名前を教えたが、女に憶える気はないのか、いまだ少年の名を呼んだことはなかった。
それに、六年前と同じ呼び方も気に食わなかった。
女の背は高く、少年はまだそれを追い越すことはできないが、六年前とは明らかに違う。
成人してはいないが、もう子供でもない。
「小さな人の子。」
女が自分をそう呼ぶたびに、少年の眉間のしわが深くなった。
女は少年に摘んでもらった花をくるくると弄びながら花弁に鼻先を寄せた。
「子供じゃない。」
少年の声に女が振り返ると、少年は不満そうに唇を尖らせていた。
「小さくもない。」
少年は椅子から立ち上がって女を見下ろした。
「おまえは頓着しないが、人間は六年でずいぶんと成長するものなんだ。いつまでも小さいと呼ばれても嬉しくはない。」
少年の感情の起伏に女は目を見開いて数回しばたいた。
「わかった。」
少年を見つめながら頷いた。
「あなたも怒ることがあるのね、人の子。」
悪びれた様子もなく、嬉しそうに笑った。
名前を呼ぶ気は更々ないようだ。

少年は子供の頃こそ好奇心旺盛で、じっとしていられない性分であったが、年を経るにつれ物静かで落ち着いた気性になっていった。
幼少時にあらわにしていた感情は、むやみに表へ出さなくなった。
しかし感情の起伏が乏しいわけでもなく、表情が少ないわけでもない。
だからといって表情が豊かなわけではないが、女と話をしていると自然と頬が緩むのを少年は感じた。
「ねえ人の子、あそこに咲いている青い花をとって来てちょうだいな。」
女にせがまれて花を摘んでくる。
すると女は赤い瞳を細めて笑顔で少年に礼を言った。
少年は自分の頬が熱く、唇が緩むのを感じた。
六年前と同じように、女は時折、空を見上げて佇んでいる。
そんな姿を見ると、憂鬱になる。
「あなたは親のもとへ帰らないの?」
おもむろに女が少年にたずねた。
少年が、親の名代でここへ滞在していることと、その内帰らなければならないことを、伏目がちに言った。
女は羨望の混じった目で少年を見た。
女はどこかへ帰りたがっている。
少年は直感した。
心に焦燥が芽生えた。

「神殿」の司はそろそろ卦がでると言った。
少年は驚いて、そして焦った。
吉凶が出てしまえば、長である父親にいち早く知らせなくてはならない。
そうすればまた女に会えなくなる。
来年またこれるか、少年には分からない。
長の采配次第だ。
少年は女のもとへ急いだ。
会える会えないにしろ、六年前のような突然の別れは嫌だった。
たとえ相手と時間の感じ方が違って、女が何年たっても気にしていなかろうが。
女と会えなくなるのは身を裂かれるほどにつらいと思った。
少年は走って、女の佇む台座まで辿り着いた。
いつも空を仰いで立っている女の様子が違っていた。
体を折り曲げ、喉を押さえて悶えていた。
女の苦しみようは明らかに異常で、その姿に少年は青ざめた。
女が喘ぐのを、どうすることもできず、少年は戸惑い、涙を流した。
しばらくののち、ようやく辛苦は終わり、荒い息をしながら女は台座に横たわっていた。
「なぜ泣くの?」
息も絶え絶えに女は少年にたずねた。
少年は言葉を紡げず、ただ首を振った。
女が手を離した首には、焼け爛れたような痕が残っていた。
「吉凶を占うたびに、わたくしの鱗は焼かれ、ひびが入るの。わたくしの体を離れた今も、繋がって痛みを伴う。」
少年が女の喉の悲惨な様子に眉をひそめたので、女はそっと手で隠した。
少年は漏れ出る嗚咽をなだめて、起き上がることもままならない女のかたわらに膝をついた。
女の空いた手を取って、涙で濡れた自分の顔を袖で乱暴に拭った。
「あの石を戻せば、おまえは楽になれるのか。」
女は少年の言葉に赤い目を見開いた。
少年の脳裏には、「神殿」へ来た初日に見せてもらった炎に焼かれ続ける美しい石があった。
「あの石は、おまえの一部なのだな。それを盗られて、おまえはここへ縛り付けられている。」
台座から離れられない。
空を見上げて恋しがっていた。
親元へ帰れる少年に羨望を抱いた。
女はここにいたくていてるわけではなかったのだ。
少年は力なく横たわる女に背を向けて走り出した。

滞在先に戻ると「神殿」の司がちょうど少年を訪ねてきたところだった。
卦が出たと言うのだ。
それではあの苦しみは、女の鱗がひび割れた証拠。
少年は我知らず顔をしかめた。
司に案内されて、ふたたび吉凶占いの祭壇へやってきた。
占い師が囲む中央に、砕けた石が置いてあった。
少年はそれを見て青ざめた。
「心配はいりません。神の石は一年経てばまた元通りになるのです。」
得意満面で説明する司に侮蔑を含んだ視線を向けた。
こうして女は毎年毎年、万死に値する苦しみをその身に受けていたのか。
それを糧に生きてきた自分自身にも嫌気が差した。
占い師が出た卦を説明していたが、一つ一つ指差される女の欠片を凝視して、少年の胸は軋んだ。

卦が出たのが夕刻というのもあり、一晩たってからの出立となった。
その夜、少年は祭壇に忍び込み、三方に供え置かれた石を盗んだ。
卦が出た直後で「神殿」内の誰もが疲れきっていたようだ。
幸いなことに、宝物の守人も手薄になっていた。
少年は女の鱗を大事に懐へしまい、女のもとへ走った。

夜に訪ねるのは初めてだった。
月明かりの下、女はまだ台座に横たわっていた。
よほど体がつらかったとみえて、少年はますます「神殿」に憤りを感じた。
台座に上ると女が少年の気配に身じろぎした。
首を動かしてその赤い目で少年を見た。
正確には自分の一部が入った少年の懐に。
少年はすぐに懐から包みを取り出そうとして手を止めた。
空を見つめて郷里を恋しがっていた姿。
しかし鱗をとられてここに縛られ、長い間苦しみを与えられ、帰ることもできなかった。
鱗を返せば晴れて自由の身となった女は喜び勇んで帰るべき場所へ行ってしまうだろう。
少年のもとを去り、離れれば忘れてしまうだろう。
生の短い人間ならなおのこと。
それは嫌だ。
少年の中に暗澹たる思いが広がった。
女と二度と会えないのは嫌だった。
そのとき女の指が動いて、少年を手招きした。
「また来たの。」
いつもと同じように女は笑った。

女は少年の手を借りて長椅子に腰を下ろした。
ひどくつらそうだったが、しばらくすれば回復すると微笑んだ。
少年は意を決したように女の赤い瞳を見つめた。
懐から包みを出して女の鱗だという石を見せた。
不思議なことにばらばらに割れた石はすでに一つに戻っており、初日に見たときとなんら変わりない輝きを放っていた。
「とってきてくれたのね。」
女は申し訳なさそうに瞳を伏せた。
しかし伏せた瞳には隠しきれない歓喜の色が表れており、少年は胸が重く沈むのを感じた。
女が鱗に手を伸ばした時、少年は包みを素早く懐へ仕舞った。
気だるげに少年を追う女の赤い瞳に胸を熱くさせながら、少年は自分のこれからの卑劣な行動を心中で詫びた。
「わたしの妃になってくれ。」
少年は青い瞳で女を見つめた。
「そうすれば返してやる。」
女は倦怠をにじませた瞳を徐々に見開いて少年を凝視した。
首をうな垂れた後、体を長椅子に横たえて肩を震わせた。
しばらくして小さく聞こえてくる女の笑い声。
「何がおかしい。」
少年が赤面しつつも怪訝に聞き返すと、女は体をねじって少年を見上げた。
「子供に子が成せるとは思えないわ。」
「子供じゃない。」
少年は恥ずかしさも手伝って、語気も荒く女に食って掛かった。
「子供よ。」
そう言い切って差し出した手を、頬を赤らめた少年は押し黙って握った。
「六年後。」
喉の奥を引きつらせながら女は呟いた。
少年はうまく聞き取れず、女の顔を見た。
月明かりに照らされて、金色の髪が長く長く波打ち輝いていた。
「これより六年ののち、あなたは民の長となる。そのときなら今のあなたの願いを叶えましょう。」
女は嫣然と微笑んだ。
少年はその言葉を信じた。
人ならざるものは嘘をつかない。
懐から包みを取り出し、起き上がった女の手に乗せた。
女は掌に乗ったおのれの鱗を懐かしむように眺め、一口で飲み下した。
先ほどまで苦しんでいたのが嘘のように、女は淀みなく立ち上がると少年の前で止まった。
喉の焼け跡は綺麗に治っていた。
「あなたとあなたの民に富と繁栄を。」
女は少年に口付けた。
少年は女を抱き締め、離すまいと腕に力を込めた。
しかしすり抜けるように金色の光が舞い散り、夜の空に飛んでいった。
月光を浴びた長い長い体が悠々と夜空を行く。
少年たちが神と崇める竜の姿だった。



少年はやがて青年となり、あまねく民に求められ、父親の跡を継ぐことになった。
女の言ったとおり、あれから六年の歳月が経っていた。
「神殿」では神の石がなくなった後、火元の分からぬ火災によって全焼し、司をはじめ大勢の占い師や神官が亡くなった。
その後、権威は自然と失墜し、民の間では神の怒りに触れたのだと噂された。
石の行方はようとして知れず、人々の記憶から消え去ろうとしていた。

長の代替わりの儀式を見ようと、人がひしめき合っていた。
青年は大勢の人に囲まれて、長である父親の前に立っていた。
青年は十二年前に出会った、人ならざる女のことを思いだした。
振り返れば昨日のことのようによみがえる、鮮やかな思い出。
時々夢ではなかったろうかと思わずにはおれぬほど、美しい記憶だった。
あれ以来、女が青年の前に現れることも、竜の噂も耳にしたことはなかったが、最後に交わした口付けと、約束だけが青年の心のよりどころだった。
青年は女を信じて待っていた。

儀式は滞りなく終わり、青年はあまねく民の長となった。
歓声が起こり、皆口々に祝辞を述べた。
そのとき背後の雑踏がにわかに騒ぎ出し、青年は後ろを振り返った。
人々が叫んで、天を指差していた。
仰いだ空には千切れ雲を縫って、金色の竜が近づいてきていた。
青年は久方ぶりに胸が高鳴るのを感じた。
神と崇める竜の姿に、人々は狂ったように歓喜した。
竜はどんどん近づき、青年目掛けて飛んできた。
間近に迫った金色の巨体に、歓喜とともに畏怖の叫びも聞こえた。
飛んでくる速度を落とさぬまま、竜は青年の頭上で光り輝き、金色の鱗を脱ぎ捨てた。
代わりに落ちてきたのは金色の髪の、赤い瞳の美しい女だった。

青年は儀式の祭壇を駆け下りて、舞い降りてくる羅衣の女を抱きとめた。
待ち望んだ女は、六年前とやはり変わらず、美しかった。
女の金色の髪が綿毛のようにゆっくりと空から舞い落ち、太陽の光を反射してまるで金色の雨が降るようだった。
竜の女は少年だった青年を見ると、嬉しそうに目を細めた。
「あのときより大きくなったわ。」
抱き上げられた女は身を屈めて青年の銀色の髪を撫でた。
青年の背丈はもうすっかり女を追い越して、軽々と持ち上げられるくらい力もついたのだ。
青年は自分の肩に、細く白い女の手が掛かるのを愛しく感じた。
女の赤い瞳に自分が写るのが、たまらなく嬉しいと感じた。
胸が熱くなる、その気持ちそのままに、青年は口を開いた。
「わたしの妃になってくれ。」
青年は六年ぶりにあらためて恋しい女に求婚した。
今度はやましさも、女を失う恐怖もないのだ。
女は額を青年の額に合わせ、祈るように呟いた。
「いいわ。」
女は青年の額に祝福の口付けを落とし、親愛の口付けを、唇に落とした。



長となった青年は女を抱き上げたまま、民の祝福を背に自分の住まいに戻った。
女が裸足であったので、敷布の上に慎重に下ろし、身づくろいをしに寄ってきた采女に女を任せた。
しかし女は不安な顔を隠しもせず、青年を見上げ、采女を警戒した。
「さあ、風呂に入りましょう。」
采女の言葉に女は飛び上がって青年にかじりついた。
「フロとはなに?」
女は人ならざるもの、人の常識は通用せぬ。
青年は今更ながらに思い出し、女を安心させるように肩を抱いた。
「大丈夫、怖くない。体を清める場所だ。」
女は青年の瞳をじっと見据えた。
「それをすると、あなたは喜ぶ?」
女は青年と采女らの反応を交互に観察した。
皆が頷くのを見て、しばらく思い悩んだ結果、いまだ不安の拭いきれない様子で決心した。
「じゃあ、入るわ。」
采女らはほっと胸をなでおろし、急いで準備に取り掛かった。
「御髪も整えましょう。」
「綺麗に着飾りましょう。」
采女は女の背中を押しながら湯殿へと案内した。
女は青年を振り返り、やはりまだ不安な気持ちを瞳に湛えていた。
「それをするとあなたは喜ぶ?」
「ああ。」
女の質問に青年は首肯して見送った。
青年が喜ぶなら、未知の領域も不安を抑えて受け入れられる。
そんな女の健気な様子が、青年はたまらなく嬉しかった。

青年は部屋の椅子に座って本を読んでいた。
すると扉が開いて、采女が女を連れてきた。
白い肌が湯に浸かったからか、ほんのり赤みをさして艶っぽい。
丁寧にくしけずった金色の髪は、複雑に編み込まれ結い上げられ、頭上を華やかに飾っていた。
肢体の曲線がよく分かる薄物の衣装は、ひらひらと何層にも重なって、豪奢な花びらのようだった。
「フロというのは熱いのね。」
しかし女の表情は難しいもので、初めて使用した湯殿に難色を示していた。
「人は湯に浸かって疲れを癒すんだ。気持ちよかっただろう?」
青年は苦い顔をする女を笑って迎えた。
青年の言葉に女は頷くものの、違う不満があるのか、後ろに控えた采女にちらりと視線を送った。
「力いっぱい肌をこするのは、できれば勘弁してもらいたいわ。」
女は青年の腕に手を掛けた。
「赤剥けにはなっていないから安心しろ。」
青年は女の背中を確認して笑った。

間近で女を見ると、その美しさは人並みはずれたものだった。
女は人ではないのだから当然のことである。
しかし十二年前からずっと年上だった女は、年を取らない外見のため、今は年下になってしまった。
自分が大人になってはじめて、女の外見年齢が分かるようになった。
神と崇める竜の眷属だけあって、指どおり滑らかな金色の髪も、紅玉の瞳も、絹の肌も、長い手足も、女性らしい豊満な体も、顔の造作も全て非の打ち所のない程に美しい。
しかし無邪気な雰囲気や、まだあどけなさの抜けない表情は十七、八の少女のものだった。
成熟した体に初心な少女の顔はアンバランスな気がして、けれど酷く青年の心を揺さぶった。
そして初心なら受動的であればいいのに、女はみずから青年に口付けるほどには能動的なのだ。
「あなたに繁栄と幸福を。」
女の色付いた唇から祝詞が紡がれた。
燃えるような赤い太陽が大地に隠れ、夜の帳が下りてくる。

青年が朝めざめると、妻となった女が自分をじっと見ていた。
青年は朝の挨拶を交わしたあと、妻にたずねた。
「昨日はよく眠れたか?」
妻の体を慮ってのことだったが、妻は首を傾げた。
「竜に睡眠など必要ありません。」
青年は驚いた。
しかし妻はおのれの口で言ったとおり、竜なのだ。
人と竜ではその体の構造も常識も、相違があるだろう。
「ではわたしが眠っている間の長い時間、退屈だったろう。」
すると妻は首を振って微笑んだ。
「あなたの寝顔を飽くことなく眺めていたの。」
夫の綺麗な銀色の髪を梳き、青い瞳を覗きこんだ。
「美しいものを見るのは好きだわ。」
臆面もなく言うので、青年は一人で赤面した。



青年が子供の頃、初めて女を見つけたとき、故郷の空を見上げて泣いているのだと思った。
青い空の向こうには、離れ離れになった親が居て、娘の帰りを待っていると思った。
今思えば子供らしい、なんとも乳臭い発想である。
しかし全てが間違いとも言い切れない。
青年は妻である女のことは、その身が金色の鱗を持つ竜であること以外何も知らない。
そうだ、自分は妻のことを何一つ知らないのだ。
そんなことに突然思い当たり、その途端、不安と焦燥がせめぎあって背筋が凍った。
居てもたっても居られなくなり、青年は妻にたずねた。
「おまえはわたしに会いに来るまでの六年間、どこにいたのだ?」
「もちろん親のもとよ。」
妻は隠す様子もなく、あっけらかんと答えた。
「おまえの他にも竜はいるのか。」
「そうね、人ほどたくさんではないけれど、人の言う悠久の時を少数で生きているわ。」
竜である妻には親がおり、同族の仲間もいる。
そして性別があり繁殖する。
青年は額から冷や汗が流れるのに気付かなかった。
震える唇で妻にたずねた。
「おまえには、許婚や、夫となるものはいなかったのか?」
平静を装って聞いたつもりだったが、妻の顔は見れなかった。
できれば答えを聞きたくはなかったが、空を恋しがるかつての妻を思い出し、たずねずにはおれなかった。
「そうね、いるにはいたわ。だって数の少ない生き物だもの。」
がつんと頭を殴られたような気がした。
大岩を背中に乗せられたような気がする。
青年は大人になってから泣いたことがなかったが、さすがにこれは泣きそうだった。
「だけどあなただけよ。」
しかし妻の言葉で我に返った。
振り返ると妻が微笑んで、青年の手を取った。
「あの戒めからわたくしを救ってくれたあなただから、わたくしがあなたのもとへ行くのを、誰も止めはしなかった。」
妻は青年の手に唇を落とした。
「あなた以外に夫はいないわ。」
青年は妻の頬に手を添えて、口付けた。
こんなに胸が熱くなったのは、生まれてはじめてかもしれないと、言葉には出さないが、手のぬくもりが伝えてくれるはず。

青年が朝起きると、妻が横で眠っていた。
はじめは人の真似事でもしているのかと、じっくり観察したが、時おり痙攣する瞼とか、規則正しく上下する胸だとかを確認する限り、本当の睡眠だった。
非常に珍しいこともあるものだと、青年は仕事もしないで妻が起きるのを待っていた。
やがて赤い、柘榴のような瞳が見え出して、妻が覚醒した。
しかし妻は自分が眠っていたことに首を傾げた。
「わたくし、今まで眠いと思ったことがないのだけれど、今はいくらでも寝たいと思うわ。」
気だるげに褥へ寝そべる妻に、珍しさも手伝って、青年はそのまま寝かせてやった。
日が暮れるころに青年が妻の元へ帰ってくると、頬をわずかに上気させた妻が出迎えた。
「眠いと思った理由が分かったのです。」
青年は単純な興味で妻の話の続きを促した。
「こどもができたのですって。人ではないわたくしも、人と交わっていくうちに、人に近づいているということなのだと思うの。」
妻の話をうっかりと聞き流しそうになって、青年は慌てて妻の肩を掴んだ。
「なんだって?」
すると妻は首を傾げたあとすぐに、得心顔でもう一度口を開いた。
「人ではないわたくしも、人と交わっていくうちに・・・」
「それではなくて。」
妻の言葉は途中で遮られ、不満そうな顔で青年を見た。
青年は自分の耳が信用ならなかったので、もう一度妻の口から同じ言葉を聞きたかった。
しかし妻はちっとも青年の気持ちに気付いてくれず、痺れを切らした青年が震える唇をわななかせた。
「だから、こどもがどうとか言っただろう。」
自分の口から言うのはとても恥ずかしいことだった。
きょとんと瞬きをした妻は、特別なことでもない風に首を傾げた。
「こどもが腹の中にいると、侍医がおっしゃっていたわ。」
妻の言葉を聞き終わらないうちに、青年は妻を抱き締めた。
強く強く抱き締めたかったが、妻のお腹を潰してはならないと思い、壊れ物に触るように、そっと寄り添うように、抱き締めた。
「まあ、なあに?こどもがそんなに嬉しいの?」
青年が髪や頬をなでるので、妻はくすぐったそうに肩をすくめて笑った。

いつかはくると思っていたが、こんなに早くやってくるとは思ってもみなかった。
異種族の間には越えられない隔たりがある。
それがどういう結果を生むのか誰にも分からない。
寿命の違いはもちろんのこと、次代を残すこともできないと、覚悟だけはしていた。
だけれど意外にもあっさりと、普通の夫婦のような日常がやってくる。
それは竜の姫を娶ってから半年が過ぎた頃だった。



長となった青年は、あまねく民が神として崇める竜を娶った。
神を娶った長は、あまねく民から称えられ、「王」と呼ばれるようになった。
王の統治する地は次第に「国」と呼ばれ、王国が出来上がった。
国に住まう人々は、かしこき王の統治のもと、豊穣の地に安寧を築いた。
人々の崇める王とその妃は、誰もがうらやむ睦まじさで、たくさんの子宝にも恵まれたとか。

王は国を統治するために、毎日仕事をする。
傍らには一番上の息子が、かつての自分と同じように、父親の仕事を見真似ている。
まだ父の仕事のなんたるかも分からない幼子であるが、父親と同じくしたいのであろう、小さな机を並べて板に石灰で何事かを書き連ねている。
しかし早々に飽きてしまい、椅子から降りると父親に退出の礼をして出て行ってしまった。
これもいつものこと。
王は少し寂しいと思いながらも、手元の仕事に没頭し始めた。
しばらくするとまた傍らで小さな音がし始めた。
視線を向けると緑の葉っぱと桃色の花びらがお行儀よく机の天板に並んでいた。
首を傾げて眺めていると、小さな二対の手が花びらと葉っぱを置いていった。
声を抑えて笑い合い、執務室の扉を潜り抜ける後姿は薄い銀色の髪の女児二人。
最初と三番目に生まれた娘たちだった。
「こら。」
扉の向こうで妻の声がした。
とたんに娘たちが驚きの短い悲鳴をあげた。
「おとうさまのお仕事の邪魔をしてはいけないと、いつも言ってあるでしょう。」
「じゃまなんてしてないわ。」
「してないわ、おかあさま。」
「わたくしたち、おとうさまにお花をさし上げていたのよ。」
「そうよ、おはなよ。」
「おとうさまはわたくしたちがお部屋に入っても気付いていらっしゃらなかったわ。」
「ほんとよ、おかあさま。」
母親に一生懸命言い訳する長女と、その後ろに隠れて加勢する次女の姿が、扉を隔てて目に浮かぶ。
王は顔をほころばせて席を立った。

扉の隙間から顔を覗かせると、やはり娘二人を前にして妻が仁王立ちしていた。
「まあまあ。」
なだめる声の振り返った娘たちは、歓喜の声をあげて父親に突進した。
足元にまとわりつく娘たちの背中を、王は身を屈めて抱いた。
「おとうさまのために花を摘んでくれたのだな。しかしおとうさまの部屋は大事なものがたくさん置いてあるから、遊ぶのは余所でしなさい。」
頭を撫でると二人は猫のように目を細め、元気よく頷いて、互いに手を繋ぎ廊下を走り去っていった。
小さな後姿を見送っていると、妻が不満げに近寄ってきた。
「甘い。」
「気づかなかったのは本当だ。」
王は誤魔化すように妻に微笑んだ。
「あなたがこんなにこどもに甘いとは、予想しなかったわ。」
呆れるような、恨めしそうな表情で、妻は夫を眇めた。
「おまえの子だから甘くもなるんだ。」
「まあ。」
夫の言葉にまんざらでもなさそうに、妻は顔をほころばせる。
夫の広げた腕に寄り添い、抱き締められるのに目を細めた。

「おとうさまおかあさま、おやすみなさい。」
「ちちうえははうえ、おやすみなさい。」
「おとうさまおかあさま、おやすみなさい。」
順番にこどもたちが就寝の挨拶をしにくる。
七つの長女を筆頭に、六つの長男と四つの次女と、二つの次男は乳母に手を引かれて。
各々、頭を下げると両親の頬に口付けて、自分の部屋に帰っていくのだ。
王と妃は手を振って見送る。
明日の朝にままた同じように朝の挨拶にやってくるのだ。
「おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
最後は互いに挨拶を交わして、一緒に眠る。
夫は妻を守るように抱き締めて、時おり臨月に近い膨らんだ腹を撫でる。
来年には挨拶をするこどもがもう一人増える。
再来年もその次の年も、どれだけ年を重ねても、今と同じように手をつないで抱き締めて、心がくすぐったくなるような毎日を送りたい。
妃はまどろみの中でそう思う。



王は長男に息子が出来たのを機に、全権を息子にゆだねて、みずからは妻を伴って静かな湖畔に隠居した。
妻は相変わらず若く美しいままだった。
知らない者がみれば娘と父親に間違えるだろう。
けれど妻はまぎれもなく長年連れ添ったかけがえのない伴侶で、竜であること意外は人となんら変わりはない。
妻となったその日から、人のかたちを保ってきたが、最近では時々、竜の姿にかえることもある。
「誰にも内緒よ。」
夜中にそう言って金色の鱗に身を包み、佇む夫の前で湖に潜るのだ。
湖底から一気に空へ駆け上がり、無数の水飛沫が月光を反射して、まるで星の中にいるような錯覚を起こす。
金色の長い胴体が、悠々と空へ舞い上がり、体を折り曲げて月をかこった。
月の中に月があるようで、面白い光景だった。
このときはじめて夫は竜の美しさを知った。
人のかたちをした妻も美しいが、本来の姿も神と呼ばれるに相応しい、幻想的な美しさを持っている。
妻はまもなく金色の鱗を脱いで、夫のもとに戻ってきた。
不思議と水には濡れておらず、しかし妻は平然としている。
これもまた竜との相違点かと思う。
冷えた水に浸かっていたことは事実で、冷えた体を温めろといわんばかりに、妻は夫に身を任せる。
夫は苦笑いに溜息をついて、これが先ほどまでの美しい生き物かと思った。
抱き上げて居室に運び込み、いつもと同じように共に眠る。

昼間は二人のこどもが自分たちの子を伴って両親をおとなう。
親に隠れて祖父母に挨拶をするいとけないこどもたちに、二人は顔をほころばせる。
もう大人になってしまったこどもたちが、幼かった日々がかえってきたようだった。
菓子を与えて喜ばせたり、転んで泣くのを抱き上げて慰めたり、妻は甲斐甲斐しく幼子の世話を嬉しそうに焼いていた。
夫は昔のようにこどもたちと走り回ったりはしないが、妻を見守る優しい瞳はずっと変わらない。
夕暮れて、こどもたちが帰っていくのを妻は名残惜しそうに見送った。
いつまでも手を振って見送った。
その夜、妻はめったにない願い事を夫にした。
「またこどもがほしいわ。」
予想していただけに、夫は苦笑いをこぼすだけだった。

ひと月たっても妻は同じことを言っていた。
こればかりは頑張っても叶うことではない。
夫はほとほと困って、なにか気を紛らせるようなものでも贈ろうかと考え出した。
そんなおりに縁があって、獅子のこどもを拾うことになった。
怪我をして死んでしまった母の傍らで、衰弱していたのを鹿狩りの最中に見つけたのだ。
こどもと言ってもすでに大型犬ほどの大きさもあり、懐かないだろうと当初は思っていた。
しかし妻は甲斐甲斐しく看病し、その結果、恩義を感じたのか妻の竜としての血がそうさせるのか、獅子のこどもはどこへ行くにも妻のあとをついてまわった。
妻も嬉しそうに獅子のこどもに世話を焼いて、満足そうだった。
獅子のこどもはみるみるうちに大きくなり、やがて大人と同じ大きさになった。
忠犬のように横に侍り、撫でれば喉を鳴らし、大きな手でじゃれる。
大きさは大人と変わらないが、妻の手にじゃれる姿は子猫そのものだ。
「ありがとう。」
妻は獅子の背を撫でながら、おもむろに口を開いた。
夫は暖炉の火がはぜるのを聞きながら本を読んでいて、妻の言葉に顔を上げた。
「このこ可愛いわ。美しい金色の鬣で、わたくしの子みたい。」
だらしなく眠る獅子の首もとに触れ、妻は微笑んだ。
今まで生んだこどもは、みな銀色や灰色の髪色で、時おり赤茶けた瞳を持つ子が出るくらい。
妻の血を色濃く継いだこどもは一人もいなかった。
「みんなおまえの子だ。」
妻もわかってはいるのだろうが、言わずにはおれなかった。
妻も夫も。

死ぬまでにもう一人くらい。
妻によく似た金色の髪と赤い瞳の美しいこどもが欲しい。
そんなことも考えた。
しかしもうすぐそこに迫っているのだろう。
今まだ生きているのが不思議なくらいだ。
もう自分の父が死んだ歳を越えてしまった。
人の平均寿命も超えているのだ。
目で見てわかる手の甲は、確実に自分の老齢を物語っている。
髭も髪もずっと前から白が勝っている。
妻と並ぶと父と娘から祖父と孫娘になってしまった。
いつまでも美しい妻の横には醜く年老いた夫の姿。
ふいに妻と並ぶ自分の姿を姿見にみてしまい、愕然とした。
いつまでも壮健で精悍な若い頃の自分ではないのだと、分かっていたつもりで全く受け入れていなかった事実。
もうそこに死の影は近づいている。



もうずいぶんと共に湖畔を散歩していない。
起き上がることも億劫で、体がいうことを利かないのだ。
毎日妻がやってきて、世話を焼いては、とりとめもないことを話していく。
過去の事、今の事、未来の事。
傍らの獅子は興味なさそうに伏せて寝ている。
時おり昔のように、妻の髪を梳いて編んでやると大層喜び、まどろみの中で鼻歌が聞こえてくる。
緩やかに優しく、触れる感触で目を覚ますと大抵は妻の指。
銀色などもう見る影もない白髪を、昔にしていたように撫でる指。
出会った頃から何も変わらない。
変わっていくのは自分の外見だけ。
変わっていくのは自分がいなくなることだけ。
妻はそのことをどう思っているのだろうか。
怖くて聞けない。

珍しく体が軽い日もある。
寝床から起き上がって伸びをすると、妻がやってきて飛びついてくる。
足元の獅子は行儀よく鎮座する。
朝日を反射する湖の縁を二人並んで歩く。
後ろを獅子がついて来る。
久しぶりに夫の元気な姿をみて、妻はいつになく嬉しそうだ。
日差しがきつくなる前に、昼食をすませて、午後は居室に引きこもる。
暇を潰すとき、夫はいつも椅子に座って本を読む。
昔から全く変わらない風景に、傍らの獅子をなでながら、妻は顔を綻ばせた。
おもむろに近寄ると、妻の影に夫は気付いて振り仰ぐ。
「なんだ?」
目尻に刻んだ皺が、歳を重ねて柔らかく写る。
「いいえ、なにも。」
妻は微笑んで首を振った。
黙って夫に抱きつき離れようとしないので、夫はなだめるように背をなでていた。
その夜は久しぶりに同じ床で眠った。
夫が伏せるようになってから、妻は寝床を分けるといったのだ。
共寝することで夫に負担を掛けられないと思ったのか。
久しぶりに腕の中で眠る妻は、嬉しそうに夫に身を寄せて、なかなか寝付こうとしなかった。

朝起きてうなされる夫を見た妻は、珍しく青ざめた。
動揺しながらも采女や侍医を呼びつけて、夫の容態を知らせた。
一命は取り留めたものの、その日から夫は悪化の一途を辿った。
もう起き上がることもできなくなり、みるみるうちに衰弱していった。
毎日妻は夫のもとへ足を運び、話をしたり歌を歌ったり、汗を拭ったり、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
夫が眠ってしまうと慌てて呼吸を確かめて、胸をなでおろすと沈黙してじっと夫を見下ろす。
しばらく微動だにせず、年老いた夫を深く深く見つめた。
その赤い瞳は不安を隠しきれず、ゆらゆらと揺れるのだ。
誰もみてはいなかったが、傍らの獅子だけが知っていた。

酷い雨が降っていた。
窓を打つ雨水のせいで、室内は冷えていた。
暖炉に火が入れられ、薪がくべられる。
時おり火のはぜる音がして、眠る夫のまぶたが動く。
燃えた薪が雪崩れる音が響いた。
ふと夫の瞼か開かれ、妻は静かに寝台へ近づいた。
「ああ、おまえか。」
首をめぐらせて青い瞳が妻を見た。
いくら年老いても、空をはめ込んだような美しい青の瞳は損なわれなかった。
「わたくし、ずっと傍にいたのよ。」
「知っているよ。」
妻が寝台に腰掛けると、夫はわずかに笑って吐息を吐いた。
「わたくし、あなたの傍にずっといたいわ。だからあなたもわたくしから離れないで。」
堰を切ったように言い募る妻は、今にも泣きそうだった。
夫は黙ってその様子を見ていた。
「わたくし、人と竜の寿命の違いくらい知っているの。だからいつかあなたがいなくなることは分かっていたわ。それが当然のことだもの、当たり前のことに心動かされたりはしないわ。」
淡々とは言うものの、妻の赤い瞳からは涙があふれていた。
親のもとへ帰りたいと嘆いて空を見上げたときでさえ、流したことのない涙だった。
「だけど、あなたがいなくなると、考えただけで、怖いわ。悲しいの。胸がつぶれそうよ。」
夫は力を振り絞って、妻の涙を拭ってやった。
濡れた自分の指先が、何よりも誇らしく思えた。
「あ・・・」
嗚咽に紛れて妻が呟く。
「愛しているの・・・」
何度ぬぐっても、とめどなくあふれる涙が、落ちて夫の頬を濡らした。
愛を言葉にするのは初めてだった。
人ではない竜の妻は、愛がよく理解できなかった。
けれど長く人の中にいて、人と交わり、人を成した。
筆舌に尽くしがたい幸せを分かち合った伴侶に、これ以外の想いが持てようか。
「わたしも愛している。」
囁くように紡いだ夫の声は、まるで求婚のときのように熱を持って妻の耳に届いた。
妻は震える手で夫にひしと抱きついた。
もう抱き締め返して、髪をなでてくれることもないけれど、愛する夫の温もりだけで心が安らぐ。
すぐに離れて見守ると、夫は目を閉じて微笑んでいた。
眠るように。

妻は取り乱したりはせず、まだ流れる涙を何度も何度もおのれの手で拭った。
夫の両手を胸に合わせ、銀色だった髪をなでて、最後の口付けを贈った。
「わたくし、腹にこどもがいるのですって。」
夫に聞かせられなかった言葉。
知っていたら夫はなんと言っただろうか。
きっと妻が喜ぶのを微笑んで寄り添ってくれる。



子供は黄色や赤の花が咲き乱れる湖のほとりを歩いていた。
曾祖母に会いに来たはずなのに、本人はおらず、子供は待ちきれなくて探検に出たのだ。
祖父の話では、曾祖母とはいうけれど、うんと若くて美しい人なのだという。
人ではなく、竜の眷属で、と教えてもらったが、子供にはよく分からない話だった。
歩いていると、花の中で佇む女に出会った。
子供の母親よりも少し年若い、金色の髪の美しい女だった。
女は子供に気付くと目を見張り、微笑んだ。
「おかえりなさい。」
子供には何の事だか分からず、首を傾げていた。
すると女は子供に近づいてきて、目の前でしゃがんだ。
「あら、少し違うのね。」
子供の髪を梳き、悲しそうに笑った。
「やっぱりどこにもいないのね・・・。」
女は呟いて空を見上げた。
酷く悲しそうな横顔に、子供は漠然と、女が恋人を探しているのだと思った。
「探しにはいかないの?」
弟とかくれんぼしたらぼくは探すよ、と子供は言った。
子供の言葉に女は花開くように笑って立ち上がった。
「あれ、お姉さん。赤ちゃんがいるの。ぼくのお母様ももうじき赤ちゃんを産むんだよ。」
子供は女の腹が膨れているのに気がついて顔を綻ばせた。
「そうよ、もう六年も入っているの。今度は竜の子かもしれないわ。」
やはり女の言うことはよく理解できなかった。
「そうね、あなたの言うとおり、探しに行きましょうか。黄泉の国へ。」
女は足元の赤い花を手折った。
赤い柘榴のような瞳を伏せて、何か思案する。
そしてふたたび子供の前に膝を折ると、真摯な瞳で語りかけた。
「わたくしがいなくなったら、この子は独りになってしまうの。」
腹をなでて示した。
「それならぼくが、守ってあげるよ。お母さんの分まで大事にしてあげる。」
子供は親からそうされたように、女の頬を取って額に口付けた。
女は涙を流すように瞑目すると金色に輝いた。
子供は驚いて一歩後退すると、その様子をつぶさに眺めた。
女の頭上からぽろぽろと金色の鱗がこぼれ落ち、脱皮のごとく金色の竜が天を目指して飛び出した。
しかし飛び立つことは叶わず、中空で金色の鱗がはじけるように飛び散って、竜はあとかたもなくいなくなった。
はじけた金色の鱗は、ひらひらと舞い落ちて、大地に触れては融けるようになくなった。
子供の足元には一抱えの大きなたまごが落ちていた。
みるみるうちにひび割れて、中で金色の髪の赤子が泣いていた。
子供はたまごの中から赤子を取り出すと、赤子はぴたりと泣き止んだ。
すでに三月は経ったような、ふくふくとしたすべらかな肌で、子供は思わず頬を寄せた。
赤子は嬉しそうに奇声を上げて、赤い瞳で子供を見た。
赤い瞳には子供の姿が写る。
銀色の髪と空をはめ込んだような瞳の、美しい子供だった。


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