かすがい☆大作戦

01.

それは、母の手作りプリンをぼくと弟が頬張っている、おやつの時間に起きた。
ぼくは驚きのあまり右手に持ったスプーンをうっかり落としてしまった程で、その音につられて弟は口の中のプリンを吐き出した。
驚かせた当事者である母は、目の前の出来事だと言うのに、ぼくらの惨状に見向きもせずぼんやりしている。
ぼくは母が当てにならないのを悟ると、弟の口元をティッシュで拭い、それからスプーンを拾って流しに突っ込んだ。水屋から新しいスプーンを取って、再び食卓の椅子に腰掛ける。
「お母さんはお父さんが嫌いになったの?」
母から尋ねられた質問の答えにはならないが、母が言い出す心理をまず知りたかったのだ。
子どもの目から見ても年中、仲睦まじい夫婦であるぼくらの両親に限って、「離婚」の二文字が出てくるとは思いもよらなかった。
そう、母はぼくに向かって「離婚したらどちらについて行く?」と訊ねたのだ。

現実的に考えるのならばぼくは迷わず父に引き取られることを望む。
ぼくは父の跡を継ぐのだから。
兄弟が離れ離れになるのは悲しいけれど、一人ぽっちになる母がかわいそうで、弟は母に引き取られれば良いと思った。
しかしこれはあくまでも仮定の話だ。
もちろんぼくは、そんな未来が来ることを望んではいない。
だから母にもう一度たずねる。
「お母さん、寂しいの?」
すると母の呟くような肯定の言葉が返ってきたのだった。

ここ半月ほど父は非常に多忙な人である。
というのは、祖父からとうとう会社の全権を引き継がされてしまったのだ。
あまり出世欲のない、面倒くさがりな父は非常に渋りながらも運命としてこれを受け入れた。
それからは多忙の極みで、ぼくら家族よりも秘書の内丸紅子さんと一緒にいる時間のほうが長い。
それに関しては嫉妬の対象とならないらしいが、とにかく父に会えないことが辛い様子だった。
「おかーさん、もう限界……」
テーブルに突っ伏してさめざめと泣き出す母の頭を、ぼくと弟は身を乗り出して撫でてあげた。
父に会えないのが寂しくて離婚を考えるなんて矛盾しているけれど、それだけ母がまいっているのだと思うことにして、あえてその矛盾に指摘はしなかった。
「離婚なんて言ったら、お父さんきっと泣くよ」
母を溺愛している父のことだから、別れ話なんてした日には怒るどころか、ショックで死にかねない。
すると母は俯いたまま噴出して笑った。
「そうそう、別れ話なんてしようものなら、きっと縋りついて放してくれないね」
母は涙を拭いながら肩を揺らしている。どうも含みのある言い方に、以前そういうことがあったのだろうと推測した。

おやつを食べ終わったぼくは、祖父母の誘いを断ってお抱え運転手の三木さんの所まで行った。
祖父母には生贄として弟を与えておいたので、当分ぼくのことを探し回る人間はいないはずだ。
許せ、弟よ。兄ちゃんは重大な任務があるのだ。
「三木さん、お父さんの会社まで送ってください」
三木さんはぼくの顔をじっとみると何も聞かずに車を出してくれた。三木さんは寡黙だけれど礼儀正しく公平な人だ。ぼくを子どもだからといって軽んじない。そういうところをぼくは非常に好いていたし、両親も大いに評価している。
会社に到着すると、取り次いでくれるという三木さんの申し出を固辞して、ぼくは車から飛び降りた。
「坊ちゃん、奥様のためにも、お帰りは社長とご一緒にお願いしますね」
ビルに向かうぼくの背中に、三木さんから声が掛かる。彼も心配してくれていたのだ。

受付のお姉さんはぼくが入ってきた時から不思議なものでも見つけたように、視線を外さなかった。
警備のお兄さんも、明らかに場にそぐわないぼくを不躾に見つめた。
彼らは不審者が社内に入らないようにいる存在だから、異質なぼくに注目するのは当然のこと。
「お仕事中のところ申し訳ないのですが、父のところへ案内していただけないでしょうか?」
しかも立ち止まって見上げたぼくを、彼らは珍獣でも見るような目つきでしばらく凝視してくれた。
確かに、どこからどうみても五歳児でしかない幼児が、大人の客のように丁寧な口を利いたらびっくりはするのだろう。
けれどぼくは見た目どおり、少しばかり賢いだけのただの幼稚園児なのだ。
だから彼らの不躾な視線に少なからず傷つくのは当然のこと。
両親や祖父母はいたって普通にぼくを扱ってくれるだけに、世間一般の扱いの差に戸惑いを覚える。

しかし、こんなことで未来の社長は挫折なんてしない。
「できれば父の第一秘書の内丸紅子女史に取り次いで頂きたいのですが」
挫折はしないけど、少なからず憤りは感じたので、下唇を突き出した言い方をしてしまった。
未来の社長は沈着冷静でなくてはならない。ぼくもまだ未熟だな。
「え……と、ボクはお父さんに会いに来たのね?お父さんのお名前は?部署とかわかる?」
受付のお姉さんはカウンターから離れてぼくの目線で屈んでくれた。
しかしよほど混乱しているのか、先ほどぼくが言った言葉など全く憶えていないようだ。
仕方がないのでお姉さんの質問に答える。
「父は水流尊と言います。社長というのはどこの部署に属するのですか?教えていただけますか、お姉さん」
最後はぼくなりに嫌味を言ったつもりなのだが、お姉さんは父の名前を聞いて顔面蒼白になっていた。また人の話を聞いていないな、この人は。
受付のお姉さんは、あたふたと内線電話を取り、どこかへ連絡を入れた。

しばらくするとお姉さんは落ち着きを取り戻し、ちらりとぼくに視線を投げた。
受話器から漏れ聞こえる声がぼくの聞き覚えのあるもので、彼女が取り次いだ先が秘書室であることを知った。きっと受付のお姉さんを落ち着かせたのも、あの人の指示に違いない。
内線を切ったお姉さんは、社長の第一秘書が迎えに来ることを教えてくれた。ぼくは内心ほっと息をつく。
受付のお姉さんは頼りにならないけれど、これから来る人は頼りになる。
だってうちの父をびしばし働かせている人だし、母も祖父もとっても彼女を頼りにしているのだ。
もしかしたらこの会社の裏番長かも。



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