Before love

10.

「酒くさ・・・。」
唇を離した僕が最初にこぼした言葉。
キスしといて理不尽な文句だと思うだろうけど、正直な話ふみは相当酒臭い。
現実に引き戻されて熱が急激に冷めゆく。
一時の劣情で彼女に手を出してしまっては佐想の怒りを買う。下手なことをして彼女との繋がりが消えてしまうのは避けたいところ。
自分の感情を誤魔化すように、僕はふみの頭をわしわしと乱暴に撫でた。
「あーちゃん。」
ふみはふにゃりと笑って僕に抱きつく。
「だいすき。」
まるで犬か猫のように顔をぐりぐりと擦り付けてくる様は、小さい頃から何も変わっていない。
僕は安心してふみを胸の中に押し込めた。
こんな風に、無条件に慕ってくれる人は彼女しかいない。身内ですら僕に見返りを求めるのだから。
「すき。」
再びまどろみだす彼女が紡ぐ好意の言葉は、なんて甘美な響きなのだろう。
彼女が与えてくれるその言葉は、見返りを求めない僕だけに捧げられる。美しい響きだと感じるのは彼女の口から紡がれるからなのか。

僕に巻き付いたままうとうとと瞼が下がりだす彼女の身体を抱き起こし、なんとかベッドに沈めれば、静かな部屋に彼女の寝息が聞こえ出す。
僕は彼女の枕元に座ってその寝顔を堪能した。
白い肌に長い睫毛が影を落とし、時折ピクリと動いてはその影が揺らめく。
酒気を帯びたからか、青白いとも思われる頬の色は、触れると思ったよりも暖かく。
キメ細やかな肌は思わず触れたくなる子供のような肌で、ああそうか本当に子供だったと気付く。
けれど触れずには居れない彼女の頬に、額に、啄ばむようにキスをしてその感触を唇で確かめた。
「おやすみ、僕の可愛いふみ。良い夢を。」
昔、眠る彼女にそうしたように、呪文のように呟いて、微笑を残して立ち上がった。
「あー・・ちゃん?いっちゃうの?」

だけれど彼女は僕の寝間着の裾を掴んだままで、僕が立ち上がった衝撃で少し目を覚ましたらしい。すがり付く視線を無碍にはできなくて、見えないところで溜息を吐き、裾を握り締めた彼女の拳をそっと包んだ。
「ふみが眠るまでここに居るよ。」
僕もかなり眠いから、早く眠りたいのはやまやまなのだけれど。
「あーちゃんもここで寝ればいいよ、一人は寒いよ、一緒に居てよ。」
眉間に僅かに皺を寄せて訴えかける本人は、もう今にも落ちそうな瞼を一生懸命押し上げて、裾を掴んだ指先に僅かに力を込めた。
自分が寂しいから言ってるのだと分かっていたけれど、僕の胸には充分響いて。
何気なくこぼした要求ですら、僕の欲する言葉と同じ。
僕がどれだけ弱い大人か誰も分かってはくれない。きっとふみ自身も分かっていない。
だけれど彼女は欲しい言葉を容易に与えてくれる。

僕もふみと一緒に居たいよ、一人で眠るのは寂しいよ。

小さい頃から独りで居ることが多くて、人恋しい思いをたくさんした。賑やかな佐想の家が羨ましくて、かまって貰えるのが嬉しくて、よく遊びに行った。
幼い彼女は可愛らしくて、僕を頼って懐いてくる。
優しくすれば無条件で後を付いて来る幼い子供の本能でもって、僕の寂しさを埋めてくれた。最初に僕の心を満たしてくれた、あの心地良さを忘れない。キミでなければ再び心は満たされない。
その身体を腕に抱けば、昔の温かい日々に戻れるだろうか。

僕は眠りについた彼女の横に潜り込み、彼女の身体を抱きしめた。
あ、温い。
人肌に僕の心は暖かく、心臓が一つ鳴る。


ただ温もりを感じて眠る夜がこんなに心地良いものなのか。
遠のく意識の向こうで愛しい人の香りがする。
胸の辺りがふわふわとしてくすぐったく、自然と笑みが浮かんでくる。
それでいてとても安心できる。
こういうことを人は『幸せ』と呼ぶのだろうか。

一度知ってしまえば手放すことなんてできない。
今を思えば以前はなんと空虚な生活だっただろう。あれに帰ることはもうできない。
彼女を得られなければ、また以前の日々に戻るのか。
今が『幸せ』であるだけに、それは恐ろしく、悲しい。


だから、ふみ。
全てのものを与えてあげる。
何者からも守ってあげる。
だから、
僕の傍に居て。
僕の手を取って。





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