Edelstein
STEP 1
――生まれて初めて恋をした。
数ある習い事の一つであるお花のお稽古。
週に一回しかないその少ない機会に、私は彼に出会った。
教室にお花を納めに来る人で、始めは先生がお花を受け取って話し込んでいるのを何とはなしに眺めていた。
いつも笑顔で、爽やかな雰囲気を崩さない人だなとか、見ていたら、胸がドキンてするようになった。
それからあの人が来るたびにドキドキして、お花の頭をちょん切っちゃって、先生にたびたび起こられた。
「最近の美潮ちゃんは落ち着きがありませんね」
そういって厳しく睨む先生は、頭を冷やしていらっしゃいと、庭に私を放り出した。
怒られて、悲しくなって、だけど自分が悪いのは分かってるから涙なんか流せない。
これは気分転換してらっしゃいという先生の暗黙の指示だから、草木が鬱蒼と生い茂る庭を一巡りしたら、また帰ろう。
「あのお花、可哀相なことしちゃったな」
無残に茎から切り落とされた花を思い出した。あまりの切り具合にどうしたって美しく生けられることは出来ないだろう。
華道にそれほどの意気込みを持たないけれど、あの花には悪いことをしたと思う。
どうにかして、生けてあげたい。
「最近の美潮ちゃんは、落ち着きがないけど良い作品を生けるわね」
帰ってきた私に先生は開口一番そう言った。
一つの形が出来ていると、よくわからない表現だけど褒め言葉だということは分かった。
そういえば、今まではお花の生け方なんて、イマイチよく分からなかった。何をどうすればいいのか、何を思って生けるかなんて。けれど最近は彼のことばかりを考えている気がする。気がするじゃなくて、考えてる。
考えすぎて、集中できなくて先生に怒られるのだけど。
「よくお花をポッキリ切っちゃうのはいただけないけど、その後のお花を思いやる姿勢は良い傾向」
先生は私の苦肉の策を見て苦笑う。
剣山を隠すように据えられた花びらは、意図して切られたとはとても思えない、ちぐはぐな様だったけれど、それでも切られてしまったかわいそうな花を捨てずに生かすのは、花を扱う上で大切な心だと先生は笑った。
「タチバナ生花店のあの子のお蔭かしら?」
先生の言葉に真っ赤になってうろたえた。先生は可笑しそうに笑って私の頭を撫でる。
「恋もまた、美的感覚を養う肥やし。結構結構」
「こんにちは、タチバナ生花店です!」
ジョキ。
私の膝の前に、お花の頭が小さな音を立てて転げた。
私の視線はお花に向いてるけど、顔を上げなくても先生が睨んでるのは分かった。
先生は溜息を一つ吐くと無言で玄関へ出向いていった。
ああ、なんだか涙が出そう。
また可哀相なことをしてしまった。
最近では先生が私を庭に放り出すよりも、私の方から進んで庭に逃げ出すことが多かった。
そう、逃げ出している。
いつまでたってもちょっとの声で心を動かされる。けれど私はいつまでも、見ていることしか出来ない。
やがて玄関から庭に回りこんで彼がやってくる。
先生では抱えきれない花の量なんだから、彼はそれを代わりに運ぶのだ。
私はいつも、見ていることしか出来ない。
用事もないのに声をかける理由もない。それに今は気分転換の休憩といってもお稽古ごとの最中だ。
それでも私は両手一杯に花を抱えた彼を食い入るように見つめた。
ごくたまに、不意に向けられる彼の視線には怯えるように素早く目を逸らすのに。
彼の視線と自分のそれを合わせる勇気すら、私は持ち合わせていない。
草と木々が乱立する中で、私は彼が花を置いていくのを見ていた。
すると彼のズボンの後ろポケットから、軍手がスルリと落ちていくのが見えた。
彼はそれに気付かずさっさと帰路についてしまう。
私は咄嗟に駆け出して、落ちた軍手を掴むと彼の後を追っていた。
今まで彼に関ろうとする事にすら、勇気がいると思っていたのに、この自然な行動は何だと言うのだろう。
自分でも理由付けなどできない行動に、戸惑うよりも先に彼に追いついていた。
「あのっ」
名前も知らない人を呼び止める手段など、他には思いつかない。
振り返った彼の瞳が大きく見開かれる。
きょとんとして、どうして呼び止められたのか分からないといった風情。
そんな表情にも激しく胸が打ち震える。頬に朱が上る。
隠したくて俯いて、同時に彼の落し物を素早く差し出したのだった。
「ああ」
彼は後ろのポケットを確認すると、心得たりと破顔して私の手から軍手を抜き取った。
「ありがとう」
彼の言葉が胸に沁みる。ただの礼。ただの五文字になんと胸を打たれることだろうか。
「いえ」
けれど口を突いて出る言葉は実にそっけない、無愛想この上ない言葉ばかり。
少しの沈黙に、気まずいと思った私は気の利いた言葉も出せなかった一瞬前の自分を呪った。
けれど、
「珍しいね」
彼の明るい声に救われた。何の気にも留めていない風で、空気を打ったようによく響く声に、私は自然と彼を仰いだ。
顔を上げた私に彼はニコリと笑みを差し出す。
私の胸は高鳴って、どうしようもないほど体内を血が巡りだす。
今なら聞けるのかもしれない。
少しの勇気でもって喉から言葉を押し出せば。
『名前はなんて言うんですか?』
『歳はいくつですか?』
『お誕生日はいつですか?』
『血液型は何型ですか?』
『好きな食べ物はなんですか?』
『・・・彼女は、いますか?』
何度も何度も頭の中で練習した言葉の数々。
今日はもしかしたら、言えるかもしれない。
「あ・・・・っ」
けれど私より早く、彼が先ほどの言葉を続けるのが先だった。
彼は私の逡巡など、視界に捉えていたとしても気付くこともなかったのだ。
「小学生の男の子が、華道習ってるなんて本当に珍しいなあ」
短い髪に少し日に焼けた肌。成長期前の寸胴。
習い事にはいつも私服で通っている。
意図して選んでるわけではないけれど、家の仕事が全国展開するスポーツウェアの量販店で、着るものはいつも男の子っぽかったのかもしれない。
今まで自分の容姿に頓着なんてしたことなかった。
――明美潮12歳、小学6年。初恋は、スタートする前に終わってしまった。
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