イチエ



最近、同じ夢ばかり見る。
十歳くらいの男の子が、こちらを向いて佇んでいる。
ただそれだけの、夢。
男の子の顔も、髪の色も、服装も、全て夢から覚めれば(おぼろ)となる。
けれど男の子は夜毎、私の夢に出てくるのだ。
何か私に伝えるように口を動かすのだけれど、私はそれを聞き取ることはできない。

私は今日も夢を見て、夜半に目覚めては寝床を抜け出す。
キッチンに立ち、水を一杯(あお)ると少し落ち着いた。

あの夢は何故か私の胸を締め付ける。
ガラスのコップにたゆたう水の陰影を何とはなしに眺めていた。
そしてあの男の子について考える。


私には、双子の兄弟がいた。
生まれる前に流れてしまったと、聞き及んでいる。
生まれることの出来なかったその子の名前は一恵(いちえ)
長子として付けられるはずだった名は、代わりに私に付加された。
イチエの分まで生きて。イチエの分まで幸せになって。
そう願った母は、今は亡き人。
あちらでイチエをその腕に抱けただろうか。

そして幼い頃の私には、そのイチエが見えていたのだと言う。
私にその記憶はないけれど、昔を知る人は口をそろえて言う。
「誰もいない所に向かって、声をたてて笑っていた。」
初めは両親も気味悪がっていたそうだが、私の見えない遊び相手の名前を聞くと涙を流したとか。
「さそういちえ だから、イチ。」

「イチ」は私の遊び相手で、見えない両親はその存在を私の口から聞くだけだった。

私が成長するにしたがって「イチ」の話もしなくなり、「イチ」の存在も記憶もないものとなりつつあった。
そう、あの男の子はきっと「イチ」なのだろう。
ハッキリと断定はできないけれど、なんとなくそういう気がしている。
顔も何も憶えていないけれど、まとう雰囲気が家族のそれに酷似している。

では、
あの子は私に何を言いたいのだろうか・・・。

私はバルコニーに出て暗闇にぽっかり浮かぶ月を眺めた。
春の夜風が肌を撫で、私の髪を攫う。


「ひふみ。」

振り返ると夫が眉根を寄せて立っていた。
「体を冷やすとお腹に悪いよ。」
そう言って、片手に持っていた薄手のブランケットで私の身を包んだ。



「悪い夢でも見た?」
夫は私の身体を引き寄せて、その身に抱き込む。
最近私が眠れていない事を知っていて、自分は仕事も忙しいというのにこうして私の体調を何かと気遣ってくれる。
「ううん。」
でもたいしたことじゃないの。私にだってどうしたら良いか分からないことだから、どうしようもないこと。悪い夢でうなされているわけでもない。
イチエの夢は悪夢じゃない。
「月が綺麗だから、見ていたの。」
「そう。」
夫は幼い頃にしてくれたように、私の頭をクシャクシャと撫でた。

二人で椅子に座って、月を眺めた。
夜のしじまが耳に痛くて、私は何とはなしに夫を見上げた。
夫は私の視線に気付いて振り向いたが、私が何も言わないので自分から口を開いた。
私のお腹に手を置いて、満足気に笑う。
「まだ動かないな。」
先週わかったところなのに、動くわけもない。そんなこと、夫も分かっているはずなのだけど、今の幸せを確かめるように、過去の孤独を払拭するように、夫は何かと私のお腹を撫でる。

私の幸せは今ここにある。
けれど、イチエの幸せはどこにある?
私はイチエの分まで生きて、幸せにならなければいけない。
イチエの望む幸せはどうだろう?
あの子はこれで満足してくれる?
夢の中のあの子は私に何を言うのだろう。
生まれていればきっと家の仕事を継いだのだろう。
祖父の後継者となったかもしれない。
それがあの子の幸せかもしれない。
夫の腕の中で、愛する夫の子を身籠り、幸せを感じる平凡な女の一生は、イチエには不満であるのかもしれない。

あの子はそれを言いたいの?
私は、私はその時どうすれば良い?


「ふみ。」

夫に肩を揺すられ我に返った。
どうも深く考え込んでいて、夫の呼びかけにも反応できなかったようだ。
顔を上げると困った表情で抱き上げられた。
「そろそろ寝よう。」
時計はあと数十分で夜明けを告げる。夜が最も冷え込む時間。

夫は私をベッドに降ろすと、布団を掛けて自分はベッドに腰掛けた。
「なあ、ふみ。」
少し冷えた私の手を、夫の大きな手が包み込む。
夫の手は私の手よりも冷えていた。

「『(いち)』のつく名前にして良いかな?」

突然の言葉に私は再び身を起こし、夫の顔を凝視した。
どうしてその名が出てくるのか。私の最近の様子をみて・・・と思ったが、彼はそこまで聡い人じゃない。
では、どうして?
「私がお嫁にきたのよ、『佐想』じゃないのよ?」
私の実家の佐想家では、生まれた子供に生まれた順の名前を付ける。
だから私は二美(ふみ)で、イチは一恵。
お腹の子供は佐想じゃないから、一の付く名前なんて付ける必要はないのよ。

動揺する私に夫はなだめるように肩を叩く。
そして幼い頃から慕わしい、いつもの笑顔を作ってみせた。
「イチエとの約束だから。」
夫の口から出た名に、私はポカンと口を開ける。
「僕にイチエは見えなかったから、唯一見えていたキミからの言葉だけれど。」
昔から変らない大きな手を、私の頭に置いてゆっくりと撫でる。それはずっとずっと昔に、かつて少年であった夫が幼い私をなだめる時によくした行為。
まるで十年も二十年も以前に還った心地にすらなる。
「今にして思えば、イチエには未来が見えていたのかもしれないね。」
夫は可笑しそうに笑い、私を通してイチエを見る。
「僕が大人になったら、イチエは僕んちの子になるって言ったんだ。何のことだかよくわからないまま、安易に頷いてた。」

夫の子は私の子、夫の子は私の片割れ。
私の片割れは私の子。

涙が溢れた。
例えイチエが、私の兄が私のお腹にいる子だとしても、生まれてくる子は「イチエ」という人間でありはしないのに、私は酷く嬉しかった。
イチエの幸せを肩代わりしなくても良いような気がしたから。
生んであげられなかった母の悲しみを、私が償ってあげられるから。

夫は静かに私の涙を拭う。
私は静かに眠りに落ちる。



そして、夢の中。
いつもの少年が佇む夢の中。

母とよく似た面差しの少年が、微笑をたたえてこちらを向き佇んでいる。
『ふみ。』
私の名を呼ぶ少年は一恵。
『ごめんね。』
一恵は言葉を紡ぐ。
口と声が伴わない、不自然な映像のように一恵の声は私の耳に届く。
『ふみ、ごめんね。』
一恵、どうして謝るの。
『今までごめんね。』
一恵は私の心を知っていた。両親の願いが私には重荷であったこと。
一恵の存在が重荷であったこと。
『そして、ありがとう。』
一恵は笑って私の額に口付けた。生前母がしてくれた、どんな悪夢からも守ってくれるおまじない。
一恵は笑っていた。



私は涙のにじむ視界で目覚め、ぼやける夫の顔を見た。
出勤前か、スーツ姿の夫は目覚めた私に朝の挨拶よりも先に「大丈夫?」と訊いてきた。
「寝ながら泣くから。」
ビックリした。と微笑んで目尻に流れる涙を拭ってくれた。

「お腹の子はイチエじゃないんだよ。」
おもむろに口を開いてその名を出す。私はそれを寝そべったままで聞いていた。
「イチエであってもイチエでなくても、この子は一人の人間として生まれてくる、僕らの子なんだ。だから、もうイチエの幸せとかキミの幸せとか、考えるのは止めなさい。キミの両親もそんな重い意味でイチの名前をふみに付け加えたわけじゃないと思うよ。キミも人の親になるんだから、想像できるだろう?」
私の曇天を晴らしてくれる夫の笑顔が眩しい。
私が思っているよりも聡い人なのかもしれない。
「尊さん・・・。」
私は夫の名を呼ぶ。用があって呼ぶんじゃない、ただ呼びたかったから、その名を口にしたかったから。
夫は私を抱き寄せて、唇に口付ける。

この人が居れば大丈夫。
私はこの子を愛せる。
イチエはこの子であって違うもの。あの人が教えてくれた。
私はこの子に生を与えるだけ。
だから、幸せになってね私の子。



その日から、イチエの夢は見なくなった。



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