ひふみのひ


1.
太陽の光が燦々と降り注ぐ初夏の日。
庭の木々がその光を遮って、まだら模様を芝の上に落とす中を僕は人を探して歩いていた。
大きな屋敷の大きな庭の中、綺麗に刈り込まれた植木の間をくぐり、または自分の背丈ほどもある蔦を掻き分けて、僕はその人の名前を呼んだ。
「ふみー?ふみー?どこにいるのー?」
だけれど目的の人からは返答もなく、僕は延々と庭を探し回るのだった。

探し人はこの大きな屋敷の主の可愛い孫娘で、名前を佐想ひふみという。
僕は屋敷の主とその息子夫婦に幼い頃からなにくれとなく世話を焼いてもらっており、自分で言うのも恥ずかしいのだけど、実の両親よりも懐いている。
実家が好きではない僕はこの屋敷に入り浸っては、この家で遊んでいたのだが、数年前にひふみという女の子が生まれてからは、もっぱらその子の遊び相手をしている。
僕には初めて妹が出来たような感覚で、歳も離れているせいかこのひふみが可愛くて仕方がない。
あーちゃんあーちゃんと呼ばれて付いてこられては、その可愛らしさに頬が緩むし、こうして姿がなくなれば、探し回るのも苦にならない。
探し当てた時の彼女の嬉しそうな安心するような表情に、僕は自分の存在意義を実感する。

「ふーみー?ふーみー?」

彼女の名前は「ひふみ」だけれど、僕は「ふみ」と呼ぶ。
それは彼女の母親に、そう呼んでくれと言われたからで、理由は知らない。けれどその時の彼女の母親は、どこか悲しそうな表情で、彼女を腕に抱いていた。

僕は垣根の向こうの木製のベンチに、地面に届かない足をぶらぶらと揺らして座る彼女を見つけた。
「ふ・・・」
名前を大声で呼ぼうと思ったところでふと彼女の様子がおかしいことに気付いた。
泣いてるとか元気がないとかそういう類のおかしいではない。
むしろ上機嫌でニコニコと笑っている。
一人で何がそんなに嬉しいものなのか・・・?
それに良く見てみると、彼女は誰かに向かって話をしている。
だけれど向かう隣には誰もいない。
それでも彼女は身振り手ぶりもまじえて、一心に隣の誰かと話をしているようだった。

「ふみ・・・・・・?」
彼女が得体の知れない者のように感じられて、彼女を連れ戻したくて、僕は小さく彼女の名前を呟いた。

それは彼女の、彼女だけに与えられた、真実の名前。

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2.
肌に刺さるような眩い日差しになりつつある初夏の庭。
夏の温風にはまだ足りない、少し涼しい風が吹く。

ふみは外に出るときに母親から被らされたつばの広い帽子を、ベンチの脇に放り捨てて、それがさっきの風でころころと転がっていく。
帽子は何の因果か僕の足元に、止まることなく転がってきて、僕はそれを無言で拾い上げた。

遅れて彼女は転がる帽子に気付いたのか、足元を確認して、帽子の軌跡を辿るように僕の存在に気付いた。
「あーちゃん。」
いつものように嬉しそうに、頬を紅潮させて僕の名前を呼んだ。
そして危なっかしくベンチを降りて、一目散に僕へ目掛けて突進してくる。短い足を一生懸命動かして、転がるように駆けてくるので、僕も慌てて前へ乗り出し彼女を抱きとめた。
「あーちゃんあーちゃん」
体をかがめるとすぐさま首に腕を回して、まるでコアラの仔のようにしがみ付いて離れなくなる。

彼女が座っていたベンチに視線を送ると、そこには誰もいない。
彼女が一人遊んでいたと思しき道端のタンポポが、ベンチの上に行儀良く並べられている。
彼女は誰かがいることを想定して、一人でごっこ遊びでもしていたのだろうか。そう思えば、彼女の奇行も独り言と片付けることができる。
けれど僕は、少しばかりの好奇心でもって、しがみ付く彼女に問いかけた。
「ふみ、誰かと遊んでた?」
もう、彼女の一人遊びと心の中で解決させていた僕は、返ってくる答えが否であると信じて疑わない。
だけれど一縷の好奇心がそうさせた。

だから、彼女が顔を上げて、僕の顔を見ながら、満面の笑みでもって肯定するとは思いもしなかった。


「うん、イチと!!!」


「・・・・・・・イチ?」


だけれどベンチには誰もいない。
彼女を振り返らせて、確認させれば彼女は言葉を重ねる。
「イチはすぐに居らんようになる。」
「イチが帽子転がったって教えてくれた。」
「あーちゃんが居るってイチが教えてくれた。」
嬉しそうに「イチ」のことを話す彼女は気づいていないのか。
僕が彼女を見つけたときには、彼女の目の前には、確実に「イチ」が居たのか。
けれど僕は知らない。

彼女の見ているものも、「イチ」の存在も。

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3.
その日は誰にも何も言わずに、僕はいつも通りにふみの遊び相手をして帰った。
けれど、その日を境に「イチ」はたびたび彼女の口に上ることになる。


違う日に、僕はふみと一緒に庭を散歩していた。
彼女と手を繋いで、木陰を歩いていると、彼女が低木の根元を指差して口を開く。
「あーちゃん、イチがあっこいてる。」
僕はぎくりとして、それでも彼女の指差す方向を見たけれど、やはり誰もいなかった。
ただ、風一つないのに木の葉がそよいでいる。
「手ぇ振ってるよ。」
そう言って彼女が手を振り返すと、低木は耳にも高く音を鳴らせて枝をたわませた。
その瞬間、僕は夢でも見ているような気分で、体は動かない分心臓が激しく活動していた。
じっと待てども、低木の影から犬猫が出てくる気配もなく、いよいよあり得ない出来事だと、僕は少し怖くなった。
けれど隣のふみは慣れているのか、全く動じた様子もなく、僕の手を振り解いて低木の方へ歩み寄っていった。

そして振り返り、僕の方に笑いかける。
「イチがあーちゃんのこと呼んでるよ。」
「え。」
どうして。というか、僕は「イチ」のことを何も知らない。
それに何の用があって「イチ」が僕を呼ぶというのだろう。

僕はふみの隣に居るかもしれない、「イチ」をじっと見た。
そんなことをして見えるわけでもなく、だけどかすかに揺れる木の葉をたよりに「イチ」の存在を探した。

でも、我慢できなくて。
本当に怖かった。
未知なる物に対する恐怖は誰にでも起こりうるものだと思ってる。
だから別にかっこ悪いだなんて思わない。
けど、あそこにふみを一人残してきたことは、申し訳なかった。
でもきっとふみは言うんだ。「イチが一緒やったから一人ちゃう。」


僕は踵を返して、屋敷へと逃げ帰った。

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4.
「やまとさんやまとさんやまとさん、やまとさん!!!」
僕は全力疾走で大きなお屋敷に滑り込んでふみの母親を呼ぶ。

走ったのと、大声で叫んだのとで僕の息は一際荒い。
僕が叫んだので屋敷中の人がわらわらと玄関に集まってきた。
僕はふみの母親、大和さんが出てくるまでの間に息を調える。

「なんや、尊。そない慌ててどないしたんや。」
大和さんは血相を変えて飛び込んできた僕に驚いていた。

「ちょっ・・・!何なん!?アレ、ふみ!」
調いきれていない息で、早口でまくし立てたから、伝えたいことの半分も口に出来なくて、それがまたもどかしくて、僕はバタバタと足を踏み鳴らした。
「ああ、」
けれど大和さんは心当たりがあったのか、得たり顔で僕に笑いかけた。
「オモロイやろ、あれ。」
そういう感想で済まされることなのだろうか、僕の常識からすると甚だ疑問でしかないんだけど。


「まあまあ、落ち着きぃや。」
大和さんは僕の肩を軽く押して、玄関脇のソファに座るように促した。
僕はまだ荒い息で促されるままにソファに腰掛けて、極力早く息が整うように努めた。

「アンタが見たんはアレか?ひふみが独り言いうてたんか?」
僕は頷く。
「一人で遊んで、何もないトコに向かって『イチ』って呼んでた。そしたらその辺にあった木ぃが揺れるんや。『イチ』ってなんや?」
僕は知らない間に眉間にしわを寄せていた。
大和さんはそれを見て、僕の眉間を指で押す。
「形つくでぇ、人相悪なる。」
マイペースB型は話の腰を折るのが得意だ。僕も人の事はいえないけれど・・・。

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5.
「『イチ』は『一恵(いちえ)』のイチ。一恵はウチとこの長男に付けるはずやった名前や。」
僕は大和さんの言葉に首をかしげた。
長男に、付けるはずだった。
しかし実際、この家に男の子供はいない。
「一恵は生まれんかった。」
僕の訝しげな表情に、大和さんは苦笑って前髪を掻き揚げた。

「・・・産んであげられへんかったんや。」

涙は流さないけれど、泣き出しそうな表情で。
きっともう何度も泣いて、流す涙も出尽くしたのだろう。

一恵はふみの双子の兄弟。
月が満ちる前に流れてしまったと。
何度も何度も小さな亡骸に謝って、残った妹に兄の分まで幸せに、たくさん生きてほしくて、名前に一つ、加えたそうだ。

だから、ふみの名前は
「一二美」





「ふみ。」

僕は彼女を置き去りにした庭へと舞い戻った。
そこではやっぱりふみが一人遊びを、目の前に誰かがいるかのごとくしていたわけで。
僕の呼びかけに、彼女は振り返り、ぷぅっと頬を膨らましてそっぽを向いてしまう。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「ふみ。」
もう一度名前を呼んで、彼女に近づくと、首をめぐらして僕の姿を見上げてきた。
「あーちゃんなんでどっかいってもたんや。」
せっかくイチがおんのに。と、語尾をすぼめながら唇を尖らせる。
「ごめんな、・・・ちょっと、トイレに・・・。」
下手な言い訳だと分かってる。それにふみが騙されるかは分からないけれど、正直な話イチにびびったとは言いづらい。
「いっといれ〜〜。」
トイレと言う言葉にふみが反応を返す。こんな下らないギャグを言うのはきっとお父さんの真似なんだろう。友三さんもこういうことをよく言ってるから。
「もうトイレは行ってきたから。」
嘘の上塗りだけど。
「イチがな〜、あーちゃんに『こんにちは』やって。」
「まだイチがいてるんか。」
「うん、目の前に。」
「え。」
僕は少したじろいだ。
でも大丈夫、さっきよりは怖くない。
ふみの兄なんだ。生まれていたらふみと同じように、ぼくと遊んでいた。
「・・・コンニチハ。」
戸惑いながらも僕は言葉を紡ぐ。少しぎこちないけれど、ふみは満足そうに頷いた。

「イチはな、あーちゃんに言いたいことがあるんやて。」
いきなりの申し出に、僕は戸惑う。イチに言いたいことがあろうとも、僕には何かを言われる心当たりは全くないし、一体何を言われるのやら。
けど興味は少なからず、ある。
「何?」
僕の返事にふみは目の前に視線を送り、ボソボソと相槌を打っている。
そして首を傾げつつも、僕に再び向き直った。
「イチは、ふみといっしょにあーちゃんがだいすきやって。」
「あ、ありがとう。」
好意を向けられることは嫌いではない。それがいてるのかいてないのか判然としない人物であっても。
そしてふみはまたイチの言葉を聴いて、僕に伝える。
「あーちゃんが大きくなったら、イチはあーちゃんちの子になります。やって。」
なんのこっちゃ。と、最後はふみの感想。
はて、なんのことやら。

イチがにっこりと、笑うかのように。
風が流れて草木が揺れる。



僕がイチの言葉の真意を知るのは、それからずっと後の話




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