はるいちばん


そろそろ暖かくなり始めようかという、暦では春のまだ寒い日。
いつものように彼女はやってきて、当たり前のように僕の隣に座る。
そわそわといつもよりも落ち着きがないと、気付いていたけれど気にかけてやる程の事でもないかと僕は視線をさっきまで読んでいた新聞に戻した。
僕に気付いて欲しい時は、もっと思わせぶりな態度を取る子なので、今の様子は自分でも気付いていない態度だろう。
僕の隣に座って僕の顔をじっと見て、そうかと思うと何を思い出したかいきなり立ち上がってキッチンに小走りに向かって紅茶を淹れる。
ポットを蒸らしている間、考え事をしているように視線はじっと定まったままで、だけれどどこか定まらない。
カップに紅茶を注いでいても、心ここにあらず。手元が狂ってこぼしそうになったのを、はらはらしながら盗み見ていた。
カップを手に再び僕の隣に座って、今度はだんまり。
一体何なんだろうと気にはなったが、ふみが言い出すまではと僕からは切り出さない。
結局その日に彼女が口を開くことはなく、何事も気にしない忘れっぽい僕は何の不安も悩みも抱えることなく一日を過ごす。


次の日もふみは僕の隣座る。
いつもと変わらない様子に、昨日のことなどすっかり忘れて、僕はソファに座ってその日の新聞を読んでいた。
だから僕の隣で正座してかしこまった態度で切り出す彼女の話にも耳を傾けることはなく、片手間に相槌を打つだけで。
「あのですね、」
「んー。」
「来るべきものが来るべき日に来ないのですが、どうしたらいいのでしょう?」
「送り主に問い合わせてみたら?」
通販でも申し込んだか。そんな程度に考えていた。
だから返した答えは至極真っ当だと思ったけれど、ふみのかしこまった態度とはちぐはくだ。
その時は、僕の思考と彼女の事情の食い違いにも、すぐに気付けないほど無関心だったということで。

彼女はしばらくの沈黙の後、再び口を開いた。

「い・・・いつ来ますかね、尊さん・・・。」

名前を呼ばれて初めて彼女を見た。
眉間に皺が寄っていて、なんとなく疲れた顔をしていたと思う。
そしてふみの問いを反芻する。どうして僕に問う?疑問と戸惑いが同時に浮かぶ。
だけれど理性が気付く前に、漠然とした、何かが湧いてきた。それはきっと勘だった。
その瞬間、思考が停止して、気付いたら結論が口をついて出ていた。

「今年いっぱいは来ないだろうねえ。」
ぽかんと大口開けながら、間抜けな顔で冷静に計算していた。
だけど実際は全然冷静であるわけがなくて、自分で言ったことに激しく動揺していたり。
きっと目が泳いでいて、それをふみが穴が開くほど見つめてたのに気付いて、「違う」と思った。

言いたいことはソレじゃない。


「けっ・・結婚して下さい。」


動揺しすぎて新聞を広げたまま、傍目から見たらなんて片手間なプロポーズ。
自分で言うのもなんだけど、意外と気が弱いのかもしれない。ビックリしすぎて貧血気味だったかもしれない。
言葉に詰まるなんて。
大事な場面なのに。
だけどふみがホッと頬を緩ませて頷いたので、もう全部どうでも良くなった。

不安な夜を、独りでいくつ過ごしたのだろう。
男で、社会人の僕には到底計り知れない心の負担。
いっそ謝ってしまいたいと思ったけれど、言葉尻だけを捉えたら、それはあまりにも誠実味に欠けやしないか。
だけど謝らなければそれ以上に不誠実。
だから僕はふみをギュッと抱き締めて、耳に囁く。
「ありがとう。」
と。
ずっと以前から彼女の事を貰い受けたいと思っていた僕としては願ったり叶ったりだけれど、彼女は違う。
いずれはと考えてはいてくれただろうけど、それはまだもう少し先の話だと思っていたはず。
それなのに承諾してくれて。全部僕の責任だけど。

しかし僕の背中に彼女の腕が回ったところで、いきなり現実に引き戻された。
感情はこの現状に浸っていたいと訴えるけれど、理性が今は優位に立っていて僕を急かす。
脳裏に写るのは彼女の愛する家族の顔。妹は良いとして、父親と祖父が大問題だ。
今までのふわふわした幸せを噛み締める余裕もなく、僕は立ち上がってふみを見下ろす。
「挨拶に、行かなくちゃ・・・!!」
撲殺覚悟で挑まなければ、貰えるものも貰えない。結局最後は折れてくれると信じているけれど、その前の報復が今はただ恐ろしい。

ふみを送るそのついでにと、僕は急いで身支度をする。
ついでとは言うけれど、明らかに挨拶が本題に決まってて、僕はいつになく改まった装いで彼女の家の敷居をまたいだ。
ひふみの母親が生きていたら、いくらか心強かったのだけれど、言ったところで詮無いことだ。
友三さんがこんな日に限って僕らを出迎えてくれたことに、逆恨みすらしたくなる。心の準備がまだできていないのにと、いい訳めいて、その実なるようにしかならなのだから、心の準備なんて結局のところ不要のものなんだ。
度胸があるとは言いがたい。見た目からして気が強そうではないと昔からよく言われた。
その見解は全く正解で、このように緊張の場面はてんで弱いのだから、よく今の仕事を続けていられるとも思う。
しかしここでへたれたら男が廃るというもので、友三さんの眉尻がピクリと動くたびに内心冷や汗を流しながら、僕は頭を下げた。
「・・・・・・・尊、一発殴らせろ。」
「お断りします。」
頭を下げた、頭上から地に響く低い声が降ってくる。友三さんの怒りももっともだとは思うが、はいそうですかと了承できるはずもない。誠実でありたいとは思うが、殴られるのは痛いので嫌だ。
「なんでや!娘の父親は、娘の結婚相手には一発かまさんとアカンもんやろ!察せや!」
今回ばかりは本気で怒っているものだと思っていたのだけれど、この訴えでは本気も半減する。
ベタな展開を愛する友三さんにはこの状況は、僕を殴って涙を流しながら『娘を頼む・・・』と呟き、背中で哀愁を漂わせるというのをやりたかったのだろうけど、そうそう乗ってやるわけにはいかない。
僕だって自分が被害を被ることは遠慮願いたい。いきなり殴られるんだったら話は別だけど、いちいち殴らせろなんて聞いてくるから断っただけだ。
「殴らせ!」
「嫌です!」
「お父さん、尊さんの顔に傷つけたら、今後一切口利いたらへんで。」
男同士の攻防が繰り広げられようとしている居間に、ヒヤリとふみの声が響いた。途端に友三さんはぴたりと動きを止めて、振り上げていた拳を力なく下ろした。僕は胸をなでおろす。
「うう・・・・・・」
友三さんはこぼれる涙を隠すように背中を向けて肩を震わせた。確かに哀愁が漂っている。
「たかし・・・ひふみは大和によう似てるからな、怒らせたら怖いねんぞ。」
「知ってます。」
「ほんなら、あんま怒らさんと、幸せにしたってくれ・・・。」
鼻水をすする音と共に、後姿で友三さんが自分の涙を拭った。
「・・・はい!」
僕らは友三さんの言葉に一も二もなく喜んで、二人で頭を下げた。

次はお祖父さんの源五郎さんの所だと、二人で敷地を駆け抜けた。
友三さんに認めてもらったことが嬉しくて、足取りは軽やかだった。
さっき自宅で妹のみつこちゃんが話を聞いていたらしく、先回りして源五郎さんに上手く話を通しておいてくれたのが良かったのか、意外にあっさり承諾された。
拍子抜けするほどで、非難されることもなくむしろ曾孫だなんだと諸手を挙げて歓迎された。
それはそれで嬉しいことだけれど面映い。
ふみと二人で目を合わせ、なんだか互いに照れ笑い。
幸せだと、疑いようもなく感じていて、近い未来の家族のここと思い描いたりして。
浮かれすぎていて失念していたとしか言い様がない。
僕がもっとしっかりしていれば、未来はもう少し変わったんだろう。
僕としては後悔などしていない、願ったり叶ったりというやつで。


それからは目まぐるしく日々が過ぎていく。
なんせ子供ができたことが前提の結婚だから、それはもう慌しい展開。
その週には書類を揃えて婚姻届を出しに行った。帰りに新生活に向けての買い物をする。
今の所、実家で親と同居する意思がないので、ふみは僕のマンションに住むことになり、色々物入りになる。
彼女の体調を気遣いながら、引越しの準備を進めつつ結婚式の仔細も決めなくてはいけないし、人生の中で一番忙しくて神経をすり減らした時期だったかもしれない。
たくさんの事がいっぺんに起きると、何か必ず取りこぼしがある。
思い込みもきっとあったんだろう。

「尊さん、コレどこに置いたらいいかな?」
「それは台所のサイドボードの上に置いといて。」
婚姻届を提出して、1週間も経たない内にふみは僕の家に越してきた。僕は休みを取って荷解きを手伝う。
普段どおりに振舞うふみにヒヤヒヤしながら、重い物は持っていないか気分が悪くなってはいないかチラチラと様子を伺っていた。
そうしたら、なんだか居心地が悪そうに眉間を寄せることがしばしば。
僕があんまり見てるからか、とも思ったけれど、どうも違うよう。
「あ。」
隣で小さく叫んで、勢いよく立ち上がったかと思えば「お手洗い!」と報告しながら部屋を駆け出て行く。
ここは彼女の家族らしく「いっトイレ〜。」と言うべきか迷っているうちにふみはいなくなり、遠くの方で水の流れる音がした。
「つわり?」
ぽつりこぼした予想に、妊娠を実感して顔が熱くなった。
段ボール箱の中身を引っ掻き回しながら、これからのことを想像して照れる。
「尊さん・・・」
「あ、おかえり。」
背後でふみの声がして振り返ると、入り口の隙間から顔をのぞかせていた。
ビックリするくらい青褪めて、思わず立ち上がって傍に寄った。
「どうしよう・・・・・・」
不安気に揺れる彼女の声が次第に嗚咽混じりに途切れて、瞳からは大粒の涙がこぼれ始めた。
僕は突然の事に状況を理解できず、肩を振るわせるふみの前で戸惑うばかり。
「え・・?ちょっ・・・どうした」
「妊娠してなかった〜〜〜〜〜。」
「はい?」
それは前回よりも強大な威力の爆弾投下。
ふみの言葉を理解するのにしばらくかかったのは言うまでもなく。
言葉は耳に届いていたけど、信じられないというか信じたくないと言うか。思考の片隅で、さっき彼女が小さく叫んだこととかトイレに走って行ったことが、この告白に繋がっていく。
「え、病院は?」
もちろん行ったでしょう?その上での妊娠宣言じゃないんですか、ひふみさん。
すると彼女は嗚咽に顔を真っ赤にしながら首を横に振る。
「えーーーーーーー。」
叫ぶ気力もなくその場にしゃがみこんだ。
なんか、今まで頑張って走り回ってたことが、全部虚しく感じられてきた・・・。あんなに浮かれてたのも今思うと馬鹿らしい・・・。
「あーちゃん・・・」
弱弱しい彼女の声に、え、と振り仰ぐ。
瞬間に自分の胸の中に飛び込んできた彼女の体を受け止め損ねて尻餅をついた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。楽しみにしてたのに。」
肩口に顔を埋められ、耳のすぐ横で彼女のはなをすする音が響いた。
途端に自分のさっきまでの思考に罪悪感を覚える。
彼女が全部悪いんじゃない。楽しみにしていたのは彼女だって同じだろうに。
そっと細い体を抱き締めて、なだめる様に背中をさすった。
「ふみ一人が悪いわけじゃないよ、僕の子だと言う時点で僕もその一端を担ってる。残念ではあるけどホッとしたっていうのも正直あるし。少し先延ばしになっただけだから。だからもう泣かないで。」
思いつく限りの慰めの言葉を並べてみた。本心からではあるけれど、心の中はこれからのことで不安に駆られていた。
妊娠は間違いだったと、僕はいいけどそれをまわりに報告することに気が引ける。
うちの両親でさえ気のない振りをしながら初孫を喜んでいるのに、佐想はどうだろう。すでにあちらはおもちゃや身の回りの品を買い揃えていると聞く。気の早いことだと呆れていたが、そんな中に真実を投下すればどうなることか・・・。想像すると鬱屈してくる。今度は殴るどころか飛び蹴りされそうだ。
「た・・・尊さん。」
浮かない顔をしている僕にふみから遠慮がちに声がかけられた。
僕の膝の上に納まって、おずおずと上目遣いで人の顔色を窺っているようだ。
首を傾げて話を促す。
「あの・・・、間違いでしたって・・・なかったことにできない?・・・結婚。」
すでに婚姻届は受理されて、戸籍上彼女はもう『佐想ひふみ』ではなく『水流ひふみ』になっている。
ふみの言葉にさすがの僕も怒りゲージが急上昇するのを自覚した。
あほか!
罵倒は寸での所で飲み込んで、代わりに握りこぶしをグリグリ眉間に押し付けておいた。
「いたたたた、あいたたたた。」
「間違いは、すぐに本当になるから大丈夫。」
涙目のふみの瞳がすぐに大きく見開かれる。僕はその顔ににっこりと笑顔を送った。
「一週間後、覚悟しておくんだね。新妻さん。」
耳に囁いた言葉で見る間に顔を真っ赤にして僕の腕から飛び退く彼女に、幸せだなと感じる初春の午後。
春一番のごとく駆け抜けた一騒動はすぐに沈静化した。仕方がないと皆眉尻を下げながら情けなく笑った。


2ヵ月後には『間違い』は『本当』になって、また僕は幸せを噛み締める。



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