春の日の花と輝く



 梅雨の時期だというのに、小雨の一つも降らないなんとも異常な天気だったのを憶えている。


 会社に実家から電話が入り、佐想建設の社長夫人が亡くなったという報せを聞いた。
通夜は明日の6時から、告別式は明後日の1時から行われることを聞いて、僕はぼんやりと喪服の所在を確認した。


ああ、どこにしまったかわからない。もしかすると実家に置いてるかもしれない。一度取りに帰らなくては。


 冷静な自分に少し驚いた。
あんなにも懐いていたご夫人なのに、少し会わなくなったくらいで情というものは薄らいでしまうのだろうか。

 ふと、彼女と出会った日のことを思い出す。
忘れてしまったわけではない、彼女への慕情は、今も尚鮮明によみがえる彼女のその笑顔が実感させてくれた。
僕に優しく笑いかけてくれたあの人は、この世にもういないのか。
けれど涙がこぼれるでもなく、僕は仕事の手を再開する。



悲しまない大人になったのだなあと、珍しく感慨にふけるのだった。



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 次の日も雨は降りそうにないほどの日差しの強い快晴だった。
結局、喪服は実家にも用意していなかったので慌てて買いに走った。
買い終わってから、親族じゃないんだし、暗めのスーツで良かったかもしれないと思い至る。でもどうせその内要り様になる日が来るのだから、揃えておいて損はしないだろうと自分に言い聞かせた。


 何年ぶりだろうか、彼女と彼女の家族に会うのは。
下の子が生まれたのは人づてに聞いたので、その頃にはあの家には通わなくなっていたはずだ。
上の子は幼稚園に入るのだとはしゃいでいた気がする。
ということは、10年は会っていないのか・・・。
 そりゃあ、僕も大人になるはずだ。
と少しおかしくなって、人目を忍んで笑った。



 式場は冷房がよく利いていて、外で脱いだジャケットを羽織って丁度いいくらいだった。
灰色の石畳の廊下を歩くと遠くの方から経文が聞こえてくる。両親はどうだか知らないけれど、僕は根っから無信心なので「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」の違いもわからない。
年をとれば仏に帰依しようという気もわいてくるだろうか。

 祭壇は白い花で埋められて、とても見栄えのいいものだった。
控えめな色合いの花々が白い花の群れでひっそりと咲き、人目鮮やかに演出している。花の白と、人の黒が絶妙のコントラストを生み出して、故人を悼む儀式なのに不謹慎にもその美しい情景に眼を奪われた。



 静かだけれどある種賑やかな雰囲気が漂う会場の外。僕は係員の焼香を知らせる案内で歩を進めた。その途中で親戚縁者関係の小母さんか、下の子の欠席をひそひそとお知り合いに話してるのを小耳に挟んだ。
母親が亡くなって、相当な取り乱しようらしい。仕方ないじゃないか、確かまだ10歳だったはずだ。いい大人だって自分の親が亡くなれば相当に悲しいだろうに、小学4年じゃ受け入れることもままならないんじゃないだろうか。
 上の子はどうしたのだろうか。僕は少しだけ気になった。
確か、ひふみちゃんと言っただろうか・・・。ひふみ・・・いや、僕はふみと呼んでいたはず。
知っているのは欠席の次女ではなく、出席の長女。
彼女は今、どうしているのだろうか?


僕の後をついてまわった幼い女の子は、母親の死をどう想っているのだろうか。






 白い花々に埋もれた遺影は、変わらぬ笑顔を湛えていた。僕の記憶からは少し年を重ねていたけれど、彼女の持つ安らぎの笑顔はそのままだった。
焼香を済ませて親類縁者に挨拶をした。
顔を上げて初めて長女・ひふみを確認できた。

 黒の制服に白い花を付けて、号泣する父親の横で代わりに参列者に頭を下げていた。

ピンと背筋を伸ばして、姿勢の良い立ち姿。
感情の読み取れない、静かな雰囲気の少女だと思った。
まるで母親とは正反対の、けれどその存在は気になって僕は通夜が終わるまでふみを見つめていた。



「ひふみちゃん、お母さんが亡くなったのに泣きもしないで・・・。悲しくないのかしら・・・?」

 悲しくないの?本当に?

「ひふみちゃん、お母さんが亡くなっても涙一つ見せずにお父さんを手伝って、気丈ねえ・・・。」

 あれは気丈と言えるの?



 周りから聞こえた様々な憶測に、僕は一つ一つ疑問を抱いた。
僕の知っている幼いふみは、母親に良く似た感情の起伏の激しい子供で、他人の痛みに敏感なところがあった。
 今、焼香台の脇に立っている少女はまるで状況を解していないかのように、事務的に頭を下げているようにしか僕の眼には映らない。


 死んだ眼をしてあいさつ回りに忙殺されて、いつか弾ける心の傷をなんでもないことのように誤魔化して、君は本当にお母さんの死を悲しんであげた?




 通夜が終わると葬儀屋の行動は感心するほど素早い。
てきぱきと、明日の告別式の準備に取り掛かり、棺は親族の詰める控え室へ運ばれた。

 人ごみの中、雑踏に阻まれて僕はふみを見失った。
いつの間にか焼香台の脇にも、所定の椅子にも彼女の姿はなかった。

 何故だか彼女のことを探しに行こうとする自分に気付いて慌てて立ち止まった。別に探しに行くほどのこともないじゃないか。
けれど、どうしてあんなにも彼女のことが気になるのだろう。
僕が他人に関心を持つなんて珍しい。
 なんとなく自分で把握できない感情を抱えて気持ち悪い思いをした。
それを誤魔化すように、僕は佐想の親族が集まる控え室に向かった。
そうだ、ご主人に挨拶しないと。
僕は気持ちを切り替えた。





 佐想家に挨拶を済ませ、僕は自宅に帰るべく駐車場に向かって廊下を歩いていた。
車のキーを指でクルクルまわして、みっともないからやめなさいよと母から言われた事があったけれど、癖のようなものだから直しようもないんじゃないかと決め付けて、直す努力はしない。

 佐想のご主人は久し振りに会った僕を快く受け入れてくれた。
彼の口から夫人が僕に会いたがっていたことを聞くと、居た堪れなくて、せめて仏となった尊顔に挨拶をと再び焼香をあげてきた。積もる話もあるけれど、夜も遅いし明日もまた来ますと言い残して僕はそこを後にした。
 その時チラリと部屋中を盗み見たけれど、ふみの姿はどこにもなくて、父親もその行方は知らないようだった。
きっと妹に連絡を取っているのだろうと、彼は言った。
ふみはとても妹のことを気に掛けていたからと。


 結局、ふみに再会することも叶わず僕は灰色の廊下を行く。
夜も更けて、空には月がぽっかりと浮かんでいた。廊下からは屋根が邪魔で月の大きさは分からなかったけれど、その明るさは中庭の竹やぶが照らされる光で確認できた。夜道を行くのにも十分な明るさだ。


「・・・・・・大丈夫?・・・そう、じゃあ明日は行けるわよね。・・・・お姉ちゃん一度家に帰るから。みっちゃん晩御飯まだでしょう?」


 静まり返った館内に小さな話し声を耳にとらえて僕は立ち止まった。
さっき顔をあわせた亡骸が話しているのかと思ったからだ。その声はよく似ていて、けれど少し違う幼い声。

 僕は声の持ち主を探して、中庭にその姿を認めた。

 白い携帯電話で妹に連絡をとっているらしいふみは、疲れた表情で電話の向こうの妹に姉の優しさでもって語らいかけていた。
一通り電話が済むと、彼女はパクンと携帯電話を閉じそれをもの言いたげな沈黙で握り締めた。あんまり強く握るものだから、彼女の白い手は更に白味を増し僅かに震えていた。


「悲しいのなら、泣けばいいのに・・・」


 僕は知らず呟いていた。
小さな小さな呟きだったから、ふみの居るところまでなんか届かないと思っていた。
けれど予想に反して彼女は耳が良かったのか、一直線に僕を見つけた。


「・・・・・・どなたですか・・・・・・?・・・・・・ああ、参列者のかたですか?もう母にはお会い下さいましたか?」


 この期に及んでまだ自分の役割を果たそうとするふみに苛立った。
僕が会いたかったのは気丈に振舞うしっかり者の長女ではないのに・・・。彼女はなにを耐えているのか。


「やまとさんにはもうお会いしてきました。」
「そうですか・・・安らかな・・・」
「君にも逢いたかったんだ、佐想ひふみさん。」


 僕の言葉にふみは驚いただろう、そんな声が彼女からこぼれた。
僕は彼女の姿をはっきりと見られるように、胸ポケットから眼鏡をとった。これがないと何も見えなくなるわけじゃないけど、物がハッキリ見えないんだよね。流石に運転の時と会議で遠くの物を見るときは掛けるけれど。


「大好きなお母さんが亡くなって、とても悲しんでいると思ったんだ。けれど君はまだお母さんの死に向き合うことすらしていないんだね。」


 僕の言葉にふみが反応して肩を震わせたのが見えた。よほど気に障ったのか、眉間に深いしわが刻まれて可愛い顔が台無しだなあと僕はのんきに考えていた。
今まで感じていたことをそのまま口にしてみたけれど、あながち間違いでなかったのかもしれない。怒るということは当たってると見ていいだろう。
ふみは忙しさを理由に母親の死という現実を避けている。


「あ・・・・貴方になにがわかるの?母さんは・・・私が大好きだったお母さんは・・・冷たくなって、私達に笑いかけもしないし、私達を抱きしめもしてくれないの!!・・・もう二度とあのぬくもりは帰ってこないのよ!!!お母さんが死んだなんて・・・・死んだなんて・・・・」


 言いながら気が昂ったのか、ふみは黒い瞳からボロボロと大粒の涙をこぼし、僕を見据えた。


「それに・・・・あの人は・・・・最期の最後に私達を裏切ったんだわ・・・・・・!!!」


ふみが突如見せた憎しみの色に僕は戸惑った。
彼女が家族を裏切る?どうして?そんなこと、あり得ない。だって、あんなにも家族を慈しみ大切にしていたもの。


「それは何かの間違いだろう?どうしてそんな確信が持てるの。」
「だって・・・母さんは病床で言っていたもの・・・私聞いたの。・・・お・・男の人の名前を呟いてたわ・・・・あ・・会いたいって・・・。お母さん、私達より大切な人がいたんだって・・・!!お父さんよりも、会いたい人なの・・・・・!」
「誰・・・?それは・・・・だれ・・・?」


それが本当なのだとしたら、僕だってショックだ。あんなにも夫を愛していた彼女が嘘になる。
僕はふみに、彼女が残した名前を問いただした。

ふみは涙を流した状態で、ゆっくりと口を開いた。


「・・・たかし、に、会いたいと・・・言っていました・・・」
「た・・か・・し・・・?」


僕の呟きにふみはゆっくりと頷いた。
ああ、腹がよじれそうだ。こんなにも笑いを誘われたのは久し振りだ。
 僕は遠慮なく、盛大に吹き出してふみを驚かせた。
廊下に等間隔で建つ柱に体を預けて、腹を抱えて笑いまくった。しまいには涙まで流れる始末。


「なっ・・・・・!!なにが可笑しいの!!?」
「だって・・・・その『たかし』って僕のことだ・・・!!」
「え・・・??」
「君のお母さんが会いたがってた『たかし』は僕のことだよ。もちろん間男なんかじゃないけど。」


 果たして中学生に間男が理解できたかどうかは些か疑問ではあるけれど、話の流れで感じ取ってはくれるだろう。
ほら、現に顔を真っ赤にしているし。勘違いが恥ずかしくて真っ赤になっているのかもしれないけれど。


「僕が小さい頃に、よく遊んでもらったんだよ。歳の離れた兄弟か、それとも親子ってところかな・・・?長い間顔を見せることもしなかったから・・・本当にそれは悔やまれるよ・・・。」


 しんみりした空気が流れて居心地が悪かった。辛気臭いのは嫌いだから。


「それよりも、君がお母さんの死を受け入れられなかったのはソレが原因?だとしたらもう解決しただろう?憎まなくても、お母さんは君達を裏切ってなんかいない。何よりも愛していたよ、家族を・・・。」
「私・・・お母さんに何もしてあげていない・・・・・悲しくて・・・でも憎くて・・・涙なんか流してあげないんだって・・お通夜の仕事も手伝って、忘れようとしていたの・・・・。ねえ・・・お母さん、私の事・・・許してくれるかなあ・・・、こんな勘違いで勝手にお母さんのこと裏切り者だって恨んだりして、お母さん私の事嫌ったりしないかなあ・・・。」


 泣き崩れるふみに僕は駆け寄って抱きしめてあげたかった。幼い幼い彼女の心はとても不安定で、母親を愛するがあまり些細なことで憎悪へと転化する。きっかけも彼女の胸のうちに秘められ、誰に悩みを吐露することもなく、昇華することもできずに暗雲へと蓄積されていたのだろう。
けれどその純粋さ故に、涙は美しすぎて、触れてはいけない禁忌のもののように思えたのもまた事実。
 伸ばした手をふみには触れることなく引き戻して、僕はおもむろに口笛を吹いてみた。
それは故人が生前好きだと漏らしていた曲で、音楽の授業で習ったのだと、僕にも教えてくれたのだ。


「それ・・・お母さんが好きだって言ってた歌・・・・・・。」
「そう。君もこの歌みたいに変わらずお母さんを愛してあげればいいんじゃないかな。『我が心は変わる日なく御身をば慕いて愛はなお緑いろこく我が胸に生くべし』ってね。」


 何者の死も時が経つほどに荒くれる激情は静まって、悲しみを乗り越えることができる。
それは決して思慕も愛情も風化して無くなるものではないし、去り行く者の存在がこの世全てから消えてしまうわけでもない。誰しもの記憶の中に長期記憶として刻まれる。
ただ別離への激しい嫌悪感を忘れてしまうだけの話。
 感情はその都度湧き上がるものだから。


 僕の言葉にふみが困惑に眉根を寄せて首をかしげた。


「それ・・・恋の歌でしょう・・・?」
「そうなんだ・・・?」


 そんなことはしらなかったなあ。教えてくれた人は何も言わなかったから。
歌詞の真意なんて考えたこともなかった。
ただ、言葉の意味をそのままに捉えて。
けれど今のこの場にとても相応しい言葉だと思ったのだから。


「なんだ〜・・・テキトー!」


 呆れた様子でふみは笑顔を滲ませた。
僕にも自然と笑みが漏れでた。 最後は二人で笑いあって、良かったなあ、笑顔が見られて。


「じゃあ、僕は帰るよ。」
「あの、・・・・・・・・・た・・・たかしさん・・・・・・。」


 再び車のキーを振り回して背を向けた僕に、ふみが予想外に呼び止めた。なんだろう、名前を呼ばれてむず痒い。
けれど自然と笑みがこぼれてくる。


「あ・・・ありがとう・・・」


どういたしまして。

たぶん僕の姿って、ふみからは廊下の影で見えなかったんじゃないかと思う。だから最後の言葉はハッキリと、彼女に届くように、感情すらも込めて言ってみた。



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 次の日は久し振りの雨だった。水不足も解消するほどの大雨で、これからやってくる日照りの夏を考えれば嬉しくも歓迎されるべきものなのだが、個人的にはそうは思えない。
じっとりまとわり付く湿気で髪ははねるし、乾かない汗をかいてシャツが体に張り付く。今日も上着は外では着れないのだ、そんなもの着た日には体中むれてしょうがない。

 葬式場へ一歩足を踏み入れるとそこは別世界で、冷風に今までかいていた汗がサラリとさらわれて、いつの間にかシャツが乾いていた。風にさらわれた汗と一緒に僕の体温も奪って行って、外で熱った体が丁度いい具合に冷やされる。除湿の利いた館内はどこもかしこも過ごしやすくて、いっそこのまま外に出たくないなあとまで思わせるんだから、エアーコンディショナーなるものを開発したひとは偉大で感謝するべき存在だろう。特に僕のような夏に弱い人間には。


 昨日と同じ会場に向かって、まだ式が始まっていないことを確認した。

 祭壇に向かって並ぶ親族の席に昨日の少女が居た。今日は傍らに妹とみえるよく似た女の子を連れて、席次どうこうで確認をとっている。昨日と同じ黒い制服に身を包み、白い花を腰辺りに挿していた。きっとあれは喪主や代表となる親族が付ける目印のようなもので、本来ならばもっと年配の親類がつけるものなのだろう。
けれどそれを付けて彼女は今日も背筋を伸ばして立っていた。
涙はみせない。
けれど、感情のない淡々としたものはない。今日の彼女にはちゃんとした感情がうかがえる。
 眼がとけそうなほど涙を流し続ける妹の傍らに、彼女は寄り添い背中を撫で続ける。その行為がとても優しくて、時折髪を撫でるその手が親愛に満ちていて、僕は妹を羨ましいとさえ思った。
 共に立つ父親には、次から次へと濡れ滴っていくハンカチを手からすり抜き、新しいものと変えていく。
ちょっとしたやさしさや、ほんの少しの気遣いが僕にはとても大きく感じられて、その彼女に何かをしてもらえる家族が羨ましくもほほ笑ましく思えた。


 昨日と同じように焼香をすませてふみの様子をじっと見ていた。
やがて式は滞りなく終焉を迎えようと、最期の別れに献花が催される。
式場の職員はやっぱり感心するほど手際が良くて、式場一杯に飾られた花々をあっと言う間に献花用に小分けしていった。
 参列者にそれが配られ、喪主が華を一輪、故人に手向けると、それを合図に次々と棺に華が埋まっていく。
僕の手元にも、渡された真っ白な胡蝶蘭が一輪あった。けれど棺に近づくことなく僕はふみを見ていた。
彼女の手には白い菊が一輪。
棺に泣き縋る妹を、彼女は後ろから見ているようだった。
そして静かに歩き出し、妹と並んで棺の前に立った。

 しばらく母親の顔を覗き込んでいた。そして、白い菊に絡ませた白い彼女の指を棺の中に差し込む。
白い菊は故人に手向けられ、彼女は涙を流した。

 頬を伝う一筋の涙は、瞬く間に量を増やしていった。
彼女は泣いている。
こぼれ出る涙を拭いもせずに、とめどなく流れるをそのままに。頬を伝い顎で雫となったそれは彼女が手向けた白い菊の花びらに、落ちて弾けた。


 なんて綺麗な涙だろうか。
僕の脳裏に鮮烈に残る彼女の涙。


 けれど、そんなに泣かないで。君の涙は僕の心を締めつける。



 なおも流れる彼女の涙を、僕は止めてあげたくて、白い胡蝶蘭を手にそっと棺に近づいた。


〜〜♪


 ふいに流れる曲目。
耳になじんだその曲に、僕もふみも顔をあげた。

 昨日奏でたあの曲。
棺の中のあの人が、生前好きだと微笑んだ歌。
 僕は足を止め、ふみを見つめた。彼女は歌を口ずさんでいる。この歌を・・・。
歌い終わると唇を引き結び、涙を手の甲でぐいっと拭った。


 そう、君の中に永遠に、亡き人は今も微笑んでいるよ。


 彼女の瞳に涙はもうない。
悲嘆に暮れた先ほどの涙は。

 妹の肩を抱き、棺から離れるように促して、参列者が華を埋めていくのを見ていた。
白い華に埋まってゆく母親を、じっと見ていた。
 そして再び涙は溢れて頬を伝った。
その度に彼女は手の甲で涙を拭い、拭いきれない涙をもてあましていた。

 つと差し出された白いハンカチ。
彼女の隣、彼女の妹が姉に差し出したものだった。
さっきまで泣きすぎて死んでしまうのではと思わせるほどだったのに、姉の泣く姿に心動かされたのだろうか。
 ふみは妹の行動に戸惑いを見せるも、泣いているのを見られたのが恥ずかしいのかはにかんで、妹の差し出したハンカチをそっと手に取った。

 二人の姉妹は互いの手をとって、華に埋もれていく母親を眺めていた。


 二人の姉妹が流すのは、愛しき母親への思慕の涙。




 僕はそれを見終わると、手に持っている胡蝶蘭を献花してしまわないと、と思い立って再び歩を進めた。
だんだんと近づく白い棺。白い華に埋もれた僕の大切な友人。


 ねえ、あなたは昔の戯言を憶えている?
幼いふみが僕にあんまりなつくものだから、あなたが言った冗談だ。


『な、たかし。うちのふみと大きなったら結婚したってよ。』


 もちろんその時の僕の答えは否。
いくら可愛くてもその時のふみは4歳、僕は13歳。
冗談も軽く流せない歳の子供だったから、真に受けて、真っ赤になって断って。





 今更、やっぱり欲しいと言えばあなたは怒るのだろうか?





 僕は緩く微笑んで、眠る彼女に華を一輪添えた。


 さようなら、僕の愛しい友人。
あなたと出逢ったことは忘れない。

 そして、再びあなたとまみえる事があるならば、それはここではない何処か。
いつかまた逢える日も、鮮やかな記憶として残るのだろう、いつまでも永遠に。




 さようなら、僕の初恋。




 さようなら、愛しい人よ。









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