ボクの名前は水流尊、小学校三年生です。
ボクの家は昔から大きな会社を経営していて、お父さんは社長をしています。
ボクが大人になったら、お父さんの跡を継がないといけないので、ボクはそのために毎日たくさん勉強をして賢くならないといけないんだって。

だけど時々、逃げ出したくなる時があるんだ。
お母さんは、ボクが跡を継ぐことになってからとても厳しくなった。テストの点にはうるさいし、行儀作法立ち居振る舞いには細かいし、友達にだって口を出してくる。
目をつぶって耳をふさいで口をとじたいと思うことだって時々あるんだ。
そんな時、ボクはある人の家に行く。
そこに住む人は心穏やかな楽しい人たちばかりで、世界で一番居心地のいい場所。
そこへ行くことを、お母さんはあまり賛成してはいない。どうしてかというと、変な言葉を覚えてくるといって、お父さんに相談していたのをこっそり聞いてしまったんだ。
表立って否定しないのは、そこの家がボクの家よりも強い力を持っているから。
ボクがその家と仲良くしておくことで、いつかきっと役に立つと思っているんだ。
ボクは役に立つとか利益が出るとかのために、あの家に行きたいわけじゃない。
ボクはあの家に暮らす人たちが好きだから、だから会いに行くんだ。
それに、あの家にはとっても楽しみにしていることがある。
はやくはやく、時間がたてばいいのに。
思い出すと笑いが止まらない。
はやくはやく、会いたいよ。


******


ぴったりとお腹に手のひらを当てて、じっと待つ。
しばらく待っていると、手のひらに何とも言えない感触が伝わって、ボクは顔を上げた。
「わかった?」
大和さんはニコニコ笑って自分のお腹をさすった。
ボクは頷きながら、また大和さんのお腹に手を乗せて、お腹の中の赤ちゃんが動くのをじっと待った。
「ぐにゃぁ・・・って、動いた!」
「尊が来ると、よう動くんよ赤ちゃん。きっと尊のこと好きなんやろね。」
見上げた大和さんの言った言葉に、ボクは赤くなった。
ボクにはお兄ちゃんはいるけど、妹や弟はいないから、はやく赤ちゃんが見てみたい。
うんと可愛がっていっぱい遊んであげるんだ。
だから赤ちゃんに好かれるのは嬉しいけど、なんだか恥ずかしい気もする。
笑い出しそうな頬っぺたの筋肉を、一生懸命抑えこんでじっと大和さんのお腹を見ていた。
はやくはやく、出てきてくれないかな。
男の子かな?女の子かな?
大和さんは教えてくれない。
分からんねん〜っていつもはぐらかしてしまうけど、絶対知ってるはずだよ。
どうして教えてくれないのかな?
友三さんが、ボクにお嫁にやるのが嫌だから、女の子だけど隠してるのかな?
大和さんが、ボクががっかりするから、男の子だけど黙ってるのかな?
そんなの関係ないのに。男の子だって女の子だって、ボクはうんと可愛がってあげる。
友三さんが嫌ならボクがお婿に来てあげるよ。
ボクは大和さんのお腹に耳をつけた。
赤ちゃんの声って聞こえないのかな?
ボコン
ボクの心の声に返事をするように、お腹に引っ付けていた頬っぺたを蹴られた。


******


「友三さん〜、早く早く!!」
ボクは後ろを振り返って、のんびり歩いてくる友三さんを急かした。
「そんな急かんでも、まだ寝てる時間やって。」
友三さんはもう何度も見にきてるから良いけど、ボクは今日が初めてなんだぞ。寝てる顔だって見たいよ!

ボクは今、病院に来ています。
病院に来るのなんて、見家のおばーちゃんが死んだ時以来だ。
でも今日のお見舞いはそんな暗い目的じゃない。
「大和さーん、来たよ〜。」
ボクは『佐想大和様』と書かれたプレートの部屋を開けた。部屋の奥にカーテンが揺れていて、大和さんの声が聞こえた。
「入っておいで。」
ボクはカーテンをそっとかき分けて、中を覗いた。
「いらっしゃい、よう来たね。」
ちょっと疲れた感じの大和さんと、大和さんのお母さんが笑顔で出迎えてくれた。
赤ちゃんが生まれたって教えてもらって、それから学校が午前中だけの土曜日をずっと楽しみにしてた。
土曜日が待ち遠しくて、でもどうしてそういう時に限ってなかなか土曜日が来ないんだろう?
学校が終わって、本当は直接行きたかったんだけど、お母さんが家に一度帰ってきなさいって物凄い怒るから、鞄を置きにだけ帰った。
鞄を置いたらすぐに佐想の家に行ったから、実はボク学校の制服のままなんだ。
そんなボクを友三さんは散々笑ったけど、それだけボクが楽しみにしてたんだって言って嬉しそうだった。
ボクは佐想の家から友三さんの車に乗せてもらって、こうして病院まで来たんだ。

ボクは大和さんに案内されて、赤ちゃんがいっぱい居る部屋に来た。
大きなガラスの窓の向こうで、いろんなお家の赤ちゃんが透明なベッドに寝かされて、動いていたり泣いていたり大人しく寝ていたりしてる。
「どれどれ?大和さんの赤ちゃん。」
ボクは大和さんのカーディガンの袖を引っ張ってたずねた。
「あれあれ、ほら今、看護婦さんが抱っこしてくれてるの。」
大和さんの指差す方に、看護婦さんが赤ちゃんを抱っこするのが見えた。
ボクは自分の頬っぺたが、赤くなったって分かった。
なんだか色んな感動が湧き出てきて、すごくすごく心臓が鳴ったんだ。
看護婦さんが赤ちゃんを抱っこして、ボクによく見えるように窓際に近づいてきてくれた。
ガラス一枚隔てた向こうで、生まれて初めて見た赤ちゃんは、ボクの感動の絶叫に驚いて泣いた。


「も〜、今度は叫んで赤ちゃん脅かさんとってよ。」
「は〜い。」
看護婦さんから赤ちゃんを受け取って、大和さんはボクを睨んだ。ボクは大和さんに叩かれた頭をさする。
大声を上げたボクは赤ちゃんを驚かせた罪と病院内で騒がしくした罪により、大和さんから鉄槌を食らったのだ。
痛いけど、そんなことすっかり忘れてしまうくらい、ボクの興味は大和さんの腕の中の赤ちゃんに釘付けだ。
赤ちゃんは何時間かおきのゴハンの時間らしくって、満腹になった赤ちゃんはベッドに戻された。
ボクはベッドで蠢く赤ちゃんに、入ってきたときからまとわり付いて、大和さんと友三さんの笑いを誘った。
恐る恐る指を伸ばして、ボクのよりもずっとずっと小さい手のひらを突付いてみた。
「ひゃっ。」
ギュッと指を握りこまれて、ボクは思わず声を上げてしまった。あんまり間抜けな声だったので、ちょっと恥ずかしくて頬っぺたが熱かった。
ボクの指を握った赤ちゃんの指をじっと見る。
小さい小さい爪や指なのに、ボクや大人のそれと変わりなく付いている。
フニャフニャとして頼りない生き物だと思う。確かに人間と同じ形の部品はしっかり付いているけれど、どれもこれも小さくてシワシワで、本当にこれが段々と人間になるのか信じられなかった。
だけどボクの指を握り締める力は、決して放すまいと言いたげに強くて、求められているんだと思った。
ずっとあとで、新生児の原始反射の一つだと知って落胆したけど、ボクを求めてくれることは変らなかった。
「大和さん、友三さん、赤ちゃんの名前決めたの?」
ボクは赤ちゃんから視線を外さないままで、二人に聞いた。
だからボクの横で二人がどんな表情をしていたのか、知らないんだ。
少しの沈黙のあと、不自然に大和さんが言った。
「きっ・・・決まった・・よ。」
なんだか泣きそうな息づかいだったから、ボクは赤ちゃんから顔を上げて大和さんを見た。
だけど大和さんはいつも通りで、ニコニコと笑っていて、友三さんは窓の外を見ていた。
「ひふみって言うの。ひふみちゃん、女の子やの可愛いでしょ。」
ボクは赤ちゃんの名前を何度も呟きながら、視線をベッドの中に戻した。
「尊には・・・ふみって呼んでやって欲しいなあ。」
「ふみ?」
大和さんの言葉にまたボクは顔を上げた。やっぱりいつもの大和さんで、どこもおかしいところはない。
「そう、呼び名。その子の特別な呼び名。尊にはそう呼んであげて欲しいの。」
「ふみ?ふみ・・・ふみ、ふみ・・・」
ボクは反芻しながら言葉の響きを確かめた。ひふみよりもずっと言いやすい響きに、しっくりくる。
赤ちゃんに視線を戻して、名前を呼んだ。
「ふみ・・・、ふみ・・・。」
ずっと握ったままだったボクの指に、赤ちゃんの力が強くなるのを感じた。
ボクは嬉しくなって、何度も何度もふみと呼んだ。
「いつでもその子だけを見ていて上げてね。尊だけは、その子のことだけ。」
夢中でふみに語りかけていたボクには、大和さんの呟きは聞こえなかった。

やがてぐっすりと眠ってしまったふみの頬をつついた。
ピクリと痙攣して、僕は驚いて手を引っ込めた。
至近距離で何物にも阻まれず、こうしてじっくり見るのは初めてだ。
大和さんにはちっとも似ていない、友三さん似の美人な子になると思う。大和さんもそう言って、自分に似ていないことにちょっとガッカリしていた。
ふいに心がくすぐったくなる。ふみを見ているとなんだか嬉しくなる。
いつまでも見ていたいと思うけれど、面会時間は終わりを告げる。わんわん泣いて、大和さんと友三さんと看護婦さんを困らせて、ついでにふみもビックリさせた。
「来週の土曜日まで待てないよ。」
口を尖らせて言うと、もう来週には退院していてふみは佐想の家に居るらしい。
来週から更に佐想家に入り浸りそうな予感がする。
ボクは友三さんに首根っこをつかまれて、ふみと引き離された。


******


クスクスと昔話に彼女が笑う。
口元にあてがわれた指は、大人のもので、僕が贈った指輪が光っている。
生まれて初めて出会った赤ん坊は、ボクの疑問を余所に、歳月を重ねちゃんと人間に成長した。
友三さん似は当たっていて、大和さんにはちっとも似ていない。ただし、顔だけの話。
性格や雰囲気はよく似ていて、さすがは娘だとしか言いようがない。
僕は彼女を抱きしめて、長く伸ばした髪を撫でた。
僕を振り仰ぐ額に口付けを落とすと彼女が眼を細める。
「ふみ・・・」
名前を呼ぶと擦り寄ってくる。
昔も今も、僕は彼女に夢中で、飽くことなく幸せを噛み締める。
絡まる指を見つめて、大きくなったなあと感慨に耽る。
僕が僕として彼女の隣に居る事も、ふみがふみとして生きていられる事も、いくつもの奇跡が折り重なって出来上がった必然なのだと、彼女が聞いたら呆れてしまいそうなことを割と本気で思っている。
互いは互いの為に生まれてきたのだと、小さな出来事にも幸せを感じることからそう思えるようになった。
いつでも彼女が隣に居てくれるから、だから僕はいつでも彼女の隣に居る。
いつまでもいつまでも、愛しい彼女はすぐ傍に。


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