城下の町は相変わらずの盛況ぶりで、厚い壁をへだてた城内まで、その喧騒が聞こえてくる。
開け放たれた窓から風に乗って、町の音が耳に届くのを、サイアンは執務机に向かいながら聞いていた。
活気づく町の片鱗が感じられるのは、サイアンにとって喜ばしいことである。いま彼が成す紙切れ一枚一枚の成果が、耳に届く音となって表れているのだから。
いっぽう室内は静かなもので、紙に走らせるペンの音と、紙片をまくる音のほかは誰も物音を立てない。
黙々と、淡々と、目の前に積み上げられた書類を終わらせていくだけである。
その時がたまたま静かな業務であったから、というわけではないが、彼の部下たち誰もが廊下へ続く扉を、手を止めて見た。
陶器のタイルが敷き詰められた廊下の上を、硬質なかかとが叩く音。
重厚な扉をへだてた向こうの、小さな音であるにもかかわらず、彼らは大国の王太子の側近だけあって耳ざとい。
それはサイアンも例外ではなく、手に持っていたペンを脇に置くと、来るであろう客を待った。

果たして扉は開かれ、颯爽と入ってきたのは目にも鮮やかな赤毛の女。
激しく波打つ巻き毛は顎のラインで切りそろえられ、城内の文官が身にまとう官服を着てはいるが、女のみごとな肢体を包み隠すことはできない。
傾城の美姫もかくやあらん。口元に浮かべるわずかな微笑でさえも、咲き誇る大輪の薔薇のようである。
しかし、誰をも魅了するであろう彼女の、赤い瞳は剣呑に細められていた。
「ごきげんよう、殿下」
女は中央の執務机の前で止まると、慇懃に礼をしてから王太子を見下ろした。
「そちらこそ、今日もごきげんうるわしいようで。宰相次官」
見下ろされたサイアンは、別段気を悪くした様子もなく、満面の笑顔であいさつを返す。すると女の唇が真一文字に引き結ばれ、赤薔薇のような瞳が紅蓮の炎に燃え上がった。忌々しいことだと、目は口ほどにものを言う。

最初こそ彼女の美貌に圧倒され、嵐のような気性に威圧されたものだが、慣れとは恐ろしいものである。今では涼しい顔で皮肉の一つも言えるようになった。
「さて、本日はどのような用向きで?」
「まあ、殿下ともあろう方が、わたくしの用件などご存じでしょうに」
宰相次官の女は嘲笑を漏らすと、手に持っていた書類の束から一枚取り出し、サイアンに差し出した。
「わたくしは、あなたが宰相閣下に申請した視察の許諾をお伝えに参りましたのよ」
渡された書面にサイアンは即座に目を通す。彼女が言ったとおり、王立総合研究所への視察許可の書類であった。宰相ならびに国王と学府の長である所長からの署名捺印が成された正式なものだ。
「最も早い日取りで視察に赴く。日程の調整を」
サイアンは書面から顔を上げると、宰相次官を見据えたまま、書類を側近へ渡した。
すると宰相次官は諸手を掲げて、にっこり口角を上げる。そしてその手を目の前の執務机の天板にたたきつけた。地割れのするような音が轟き、サイアンは耳鳴りに人知れず眉をひそめた。
「それから殿下に朗報ですわ。今回の視察へは、わたくしも随行いたしますのでよしなに」
サイアンも、宰相次官の浮かべる笑顔に負けず劣らずの笑顔を浮かべる。
「そのようなことであろうと思いましたよ、義姉上」
宰相次官は、サイアンの発した最後の一言に、わずか左口角をぴくりと歪ませた。しかし笑顔は崩さぬままに、優雅な所作で白魚の指先を口元にもっていく。
「まあいやだ。もうあの子の夫になったおつもりですの?おこがましい」
「一年後には現実となることですよ、義姉上」
サイアンは彼女が嫌がるのを分かっていて、何度も彼女を「義姉上」と呼ぶ。
彼の呼ぶとおり、彼女はサイアンの許婚の姉である。そして、彼女がサイアンを目の敵にするのは、彼女が重度のシスコンだからだ。
最初からそりが合うはずもない。

二人の穏やかな笑い声が、のどかな昼の室内にこだまする。しかしその空気は絶対零度の響きをもつ、不穏極まりないものである。
鈍色の空気が室内を支配しだすにつれ、仕事をしていたサイアンの部下たちは皆一様に手を止める。重苦しい雰囲気に誰もが息をつめて、微笑を浮かべる二人の言い合いの行く末を見守っていた。
ちなみに宰相次官といえども、仕えるべき王族に対して慇懃無礼な罵詈は不敬極まりないのだが、この二人にいたっては、今や日常茶飯事であるため、誰も進んで仲裁には入らない。

「まあ、それはそれとして認めて差し上げましたので、今さらとやかくは申しません。なによりあの子が望んだことですし」
にらみ合いを一時中断するように、宰相次官は息を吐き出し呟いた。
憤怒を吐息と共に吐き出したのかと思われたが、彼女の冷ややかな眼差しは、静かに燃え盛る怒気をたたえている。
「しかし婚約の履行は一年後。妹が学府での課程を修了するまでは、婚礼を早めるような振る舞いはなさらぬように」
妹の婚約者として全く信用されていない言いざまに、サイアンは目元を赤らめ、むっとした。が、宰相次官の尋常ではない眼光に、下手な反論はするまいと口を閉じる。
己のプライドは大事であるが、命のほうがもっと大事だ。
彼女の言うような振る舞いを、もし、しでかそうものなら、間違いなく殺される。比喩的表現ではなく、目の前のシスコン女は、大切な妹を傷物にされたならば、地の果てまでも追いかけてその命を奪うだろう。たとえ相手が公的に認められた婚約者で、合意のもとであってもだ。
宰相次官殿はサイアンを、必要とあらば弑することにためらいはない。逆にサイアンは、いかなる理由があっても、愛しい許婚が悲しむがゆえに、その肉親を殺すことはしたくない。そこが宰相次官とサイアンの、決定的な差。
「また明日にあらためて視察日をうかがいに参ります。楽しみですわ、本当に。では、ごきげんよう」
宰相次官は最後の用件を述べると、サイアンに向かって敬礼をし、颯爽と帰って行った。
残された室内には、まるで嵐が去ったあとのような空気が残っている。精神的に疲弊し、サイアンは椅子の背に体をあずけた。
溜息をひとつついて、仕事の手を再開するものの、書類に目を通してもなおざなりになる。
もうひとつ深い深い溜息をついて、机の上に突っ伏した。

忌々しいのはなにも宰相次官だけの話ではない。サイアンだって未来の義姉を忌々しく思っているのだ。
ことあるごとに許婚との逢瀬を邪魔されれば、誰だって憎らしくなるだろう。
正式な婚約を結んだものの、サイアンは婚約者であり恋人のエオシンと、運命の出会いを果たした舞踏会以来、一度も会っていない。正確に言えば、会わせてもらえないのだ。
普通の恋人ならば、思いが通じ合ったあと、時間の許すかぎりに逢瀬を重ね、甘い時をすごすものであろうに、悲しいかな彼の場合は、愛しい恋人よりも天敵とも言うべきその姉と顔を付き合わせる回数のほうが多かった。
大国の王太子は伊達ではない。サイアンは忙しい身の上である。それはあの赤い美女が、宰相次官としてアズーリに来る前からずっと。
しかし、それよりも輪をかけて忙しくなったのは、宰相次官が来てからだ。
息をつく暇もなく、次から次へと裁可の書類を積まれ、やれ視察だ外交だと連れまわされ、朝議では議論が白熱しすぎて昼を過ぎても終わらない。それもこれも、宰相次官が表立って仕組んでいることだった。
そんな毎日を過ごす彼に休日はなく、恋人に会いにいける暇はなかった。わずかな隙を作って会いに行こうとしたが、どこからともなく宰相次官が現れては、何かと理由をつけて仕事を押し付けられる。そして忙殺されて、恋人には会いにいけない。
しかも、サイアンの行動を制限する妨害だけではない。
会えない時間が愛を育てるとはよく言ったものだが、愛の言葉をつづって送っても、婚約者からはなしのつぶてで、サイアンはしばらく思い悩んだことがある。破局の二文字が脳裏をかすめるほどには。
最初の頃は、許婚が忙しいせいだと思うようにしていた。彼女はアズーリの誇る最高学府に籍を置く。試験に研究にとその忙しさは尋常ではなく、サイアンも身に覚えがあるだけに、理解できた。
しかし手紙の数が五通、十通と増えるごとに、不安は疑念へと変貌した。
これは誰かが途中で握りつぶしているな、と。
「誰か」だなんて、容疑者は一人しかいない。諸手を挙げて祝われたこの婚約に、渋い顔をしたのは義姉しかいない。
しかし証拠は残念ながら何もない。さすがは一国の宰相次官を務めるだけあり、抜かりはない。
確信はあるが、義姉に罪を問うこともできず、サイアンは苦い思いをした。
ならば、全くの正攻法でいくしかあるまい。堂々と正面から恋人に会いに行くのみ。
宰相次官から公務を押し付けられ妨害されるのならば、その公務として彼女に会いに行けばいい。
そしており良く、三年に一度の学府の視察がやってきたのは、天の采配としか言いようがない。

しかし問題はまだ残っている。
苦心してもぎ取った学府の視察にも、義姉は同行するという。もちろんサイアンの邪魔をするためだろう。
そして、彼女が付いてくるのは想定内なのだが、どうやって出し抜くかが彼の課題だ。
サイアンは机に伏せていた頭を上げて、みたび書類に目を落とす。
今は目の前に課せられた職務を片付けなければならない。義姉に負けてはいられないのだ。
そう、負けられない。

黙っていても婚約者が学府を卒業する一年後には履行される婚約だ。我慢すれば実る恋なのだ。
けれどそれでは駄目なのだとサイアンは思う。
恋に落ちたなら、受身ではいけないのだ。障害を乗り越えて、勝ち取らなければいけないのだ。




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